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「カリフォルニア・タイム・スリップ」を読む(1)


カリフォルニア・タイム・スリップ:フィリップ・K・ディックの非現実の記憶

California Time-Slip: Philip K. Dick's Memories of Irreality

(初出:LA WEEKLY, 9-November 15, 1990)

スティーヴ・エリクソン(Steve Erickson)著


  そのとっちらかった生涯の途中で、フィリップ・キンドレッド・ディックは双子の妹が生きた一か月間より長生きし、広場恐怖症の精神治療に打ち込む十代をすごし、レコード店で働いてクラシック音楽を愛好し、五度結婚し(最初の結婚生活は六か月)、三児の父となり、現実においても妄想においても国税庁とFBIからの嫌がらせに悩まされ、さまざまな種類の薬物を摂取し、統合失調症とパラノイアの治療を受け、破産し、しつこく気を狂わせようとしてくるミューザック・ラジオ局の陰謀の標的になっていると信じて疑わず、自殺を数度こころみ、宗教的なエピファニーを何度も体験し、リンダ・ロンシュタットとヴィクトリア・プリンシパルへの満たされない性的オブセッションを長年抱えつづけ、三十五冊の小説が一九五五年から彼が亡くなる一九八二年のあいだに、そしてあと八作が死後に出版された。


 極度に圧縮されたフィリップ・K・ディックの評伝。文壇と折れ合わないマイナーな作家の生涯を短いフレーズに圧縮して差し出す様子は、ロベルト・ボラーニョが好んで書く短編(「センシニ」や『アメリカ大陸のナチ文学』、その他もろもろ)も連想させる。ちなみにボラーニョはフィリップ・K・ディックを「激怒とLSD漬けのカフカ」と表現した。彼の「Bolido」という詩には、「フィリップ・K・ディックは死んで/いまぼくたちが求めるのは/ほんとうに必要なものだけ」という一節が登場する。英訳がすでに出ている小説 El espíritu de la ciencia-ficción(『サイエンス・フィクションの精神』)も気になるところ。

 

広場恐怖症(Agoraphobia)で思い出すのは、米アトランタのロックバンドDeerhunterが広場恐怖症を歌った名曲「Agoraphobia」(2008年)。わたしを包んで、わたしは消え去りたい…。

 

ディックと音楽。16~17世紀のイギリスの音楽家ジョン・ダウランドの曲からタイトルをとった代表作に『流れよわが涙、と警官は言った』がある(ダウランドにあやかったペンネームを使っていたことも)。キャラクターの破滅っぷりと感情の起伏がはなはだしく、クライマックスではある人物の怒りと悲しみが、描写されている場所のパースを歪めるような感覚に陥る。ラストの燃料補給所での交流の場面など、忘れがたいシーンがそこかしこにある。

 

フォーク・ミュージシャンの金延幸子は、1972年にデビューアルバム『み空』(レコーディングは細野晴臣)をリリースする直前に渡米、音楽評論家のポール・ウィリアムズと暮らした。それから十年、音楽活動をしていなかった彼女の歌を聴いて、音楽を続けるよう促したのが、彼女の当時の夫ポールの友人で、当時バークレーのレコード店で働いていたディックだった。ディックは1982年に、彼女のカムバック7インチを自身のプロデュースでリリースした(その経緯を金延はインタビューで語っている)。


 作品のほとんどはペーパーバックだった。あきらかにすべてが、最初の出版時には商業的に失敗した。いくつかは彼の死後何年たっても出版されなかった。あきらかにすべてが――まれな例外はあれ――批評的に失敗した。つまり文学的権威に見過ごされるか、もしくは完全に黙殺された。頭の固い権威筋たちにとって、ほとんどの作品は芸術的に失敗していた。コンセプトは未熟、語りは散漫、書きぶりは苛立たしいほど性急。おそらくひとつとして偉大な小説と呼ばれるものはないだろう――完璧で、多面的で、作者のテーマと関心が、自己完結した世界観にまとまっているものこそ偉大な小説だと決めつけているかぎりは。彼の著作をいままでひとつも読んだことがないというのも、いかにもありうることだ。いますぐ本屋へ出かけて一冊買おうとすれば、ほんの一部をのぞくすべてが絶版だと知るだろう。


かつてフィリップ・K・ディックの作品が日本でぜんぜん知られていないのを「ガイタンした」のは、日本のディック翻訳者のひとり、浅倉久志(1977年の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の訳者あとがきでそう書いている)。『電気羊』に着想を得た映画『ブレードランナー』が公開されたのはその5年後の1982年。浅倉は、1994年刊行の、いま手に入る早川文庫の『電気羊』のあとがきで、代表作のほとんどが日本語訳で読めるようになったと報告している。

 

エリクソンがこれを書いたのは1990年11月。アメリカでディックの短編全集などが刊行される前夜であることが、このあと書かれている。まだ評価がいまほど定まっていないころに書かれたこのエッセイのエリクソンの筆圧はすごい。ひとりでこの書き手と彼の作品群を掲げんとする筆圧。「エリクソンらしいエンジン全開の出だしのまま駆け抜けるのかな…」とは、この二つのパラグラフを読んだ友人Tの言葉。

(つづく)


翻訳・文=川野太郎