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タロット・リーディングの手引書


川野太郎 Tarot Kawano



 

タロット・リーディング(はじめに)

 

 これについて書いてみることを思いついてから、あれこれイメージや言葉が浮かんではいちど消えてまたあらわれて、というのがくりかえされている。そんななかでいまいちばんしぶとく残っているのは、自分にとってタロット・リーディングはつまるところ〈世界の味わいかたのひとつ〉だ、という言葉というか、印象だ。

 カードをめくる。絵があらわれると、それを眺める。そうやって頭に浮かんでくることは、「カードをめくらなければ気づかなかった自分や世界やこれからの一日の新鮮な見えかただ」という気がする。

 タロットカード遊びをそんなふうに考えたときに、きまって思い出すようになったのは、敬愛するアメリカの作家ハワード・ノーマンの、なかでも大好きな小説のひとつ『Lの憑依』のなかにある一節だ。

 小説の語り手、写真家助手のピーター・デュヴェットは、仕事のためには殺人も厭わない雇い主に彼の妻との不倫を知られてしまう。だが、そんなのっぴきならない関係に追い込まれても、ピーターは寒気にとざされたホテルを出ようとはしない。「ヴィエナ〔雇い主の写真家〕の前で背信という罪悪感に苛まれている現状に比べ、広大な未知の世界への脱出が賢明な判断とは思えなかった」と彼は言う。

 なぜか。

 それは、「ぼくが閉じこめられている世界に、味わい、感じ、そして語りあえる可能性があったからだ」。やがてこの判断、というかむしろ判断の「保留」が、デュヴェットをさらなる危険のなかに導いてゆく、その筆致は無類の面白さなのだが、それはともかく、この箇所を読んで以来、「世界を味わう余地」ということを、よく思うようになった。

 朝、習慣としてカードをめくってみるとき、前提になっているのがこの「世界にはまだ『味わい、感じ、そして語りあえる可能性』がある」という世界観だ、と、言葉にするならそうなるだろう。

 いつもそう思えているわけではない。たいていはむしろその逆で、真夏に外気温が摂氏四十度を記録したり、だれかによるだれかへの批判を自分に向けてしまったり、悲痛としかいいようのないニュースを見ただけでも「もう終わりかな、すくなくとも終わりに向かっているよな」という、主語のあいまいな暗い気分に陥ったりするのが日常だ。

 でも、朝にタロットをめくるときは、そのあいまいなペシミズムを棚上げにする。現実がどうであっても、「もしまだ味わえる余地があるとしたら」というコンセプト(虚構の枠組み)で世界を見ることにしてみたら、どんな言葉が出てくるのだろう、という運動なのだ。このさい、現状が実際にどうなのかはほとんど問題ではない。

 だから、自分にとってのタロットは「真実」を「言い当て」たり、「予言」をしたりしない。ただ、どんな状況になっても世界に見所を発見してしまうような〈読み手〉が、タロットを通じてあらわれ”、という感じだ。

 その〈読み手〉はどんな存在なのか。いつ、どんなふうにあらわれて、どんなことを話すのか。〈読み手〉との語り合いが、世界や、その日一日を、どんなふうに変えたり、変えなかったりするのか。そういうことを、書きながら考えてみたいと思う。

 具体的に見ていこう。

 

 

朝のリーディングは一日という単位を意識させる

 

 いま朝の習慣になっているのは、タロットカードを二枚めくって、そこから「読み取った」言葉を、出たカードの写真とともにインスタグラムのストーリーに投稿する、というものだ。「読み取る」という言葉にカッコをしたのは、なんとなく正確ではないというか、実際に起こっていることを曖昧にして済ませている印象があるからだが、それについてはまたあとで考えてみよう。

 とにかく、自分の関心は変化するものだし、ソーシャルメディアの仕様はいつ変わってもおかしくないから、これとそっくりそのまま同じ習慣が続くとはかぎらない。でも、

 

(1)朝にめくること。

(2)めくるカードが二枚であること。

(3)それを写真に撮っておくこと。

(4)読んだ言葉を不特定多数の読み手に提示すること。

 

……このあたりの要素は、それほど変わることはない気もする。

 朝にタロット・リーディングをするのは、〈一日〉をひとつの単位にしているからだ(こう言うとき、思い出しているのは詩人の長田弘が書いた、「人生ということばが、切実なことばとして感受されるようになって思い知ったことは、瞬間でもない、永劫でもない、過去でもない、一日がひとの人生をきざむもっとも大切な時の単位だ、ということだった」という一節だ)。一年や半年やひと月は「占う」には長すぎるし、次の一分や一時間のことを問うのはなんとなく余裕がない気がしてしまう。

 もちろん、一年のことを元日に占っても、次の行動が決まらないときの背中を押してもらうのもいい。ただ、これから話すことは「朝のリーディング」に固有のことで、それは前者のふたつとはなにかが違う、ということだ。

 一日のことを朝に考えるのは、一年という時間をカードの図像に背負わせるほど重くないし、一時間先のことを問うほどには焦ってもいない。朝のリーディングの時間を特徴づけるのは、重さよりも軽さ、焦りよりも落ち着き、であるようなのだ。一分先のことをゆっくり考えるための余裕を、そして、一日より先のことは気にしすぎない軽やかなスタンスを、朝のリーディングそのものが思い出させてくれる。

 どんなタイムスパンよりも、一日をひとくぎりにして行動することがしなやかな生のヒントになる、というのが、朝のタロット・リーディングの数少ない信条のひとつだ。

 

 

めくるカードは二枚

 

 めくるカードが二枚、というのも、一日という単位を念頭に置いた軽さと落ち着きにかかわっているかもしれない。タロット・リーディングの教則本には、さまざまな枚数を使った多様な読みかたが紹介されているけれど、ひとことでいうと「自分の手に余る」と感じる。それが一種の窮屈さや、面倒臭さ、飽きを生んでしまう……と思うのだ。これはタロット遊びをする人の関心の度合いやありかたに左右されるだろうけれども。

 では一枚ではなぜいけないか、というと、二(以上)という数であればおのずとあらわれる関連性、差異、変化の過程、相反するアイデア……といった〈動き〉もしくは〈流れ〉がそこにあらわれにくいからだ(似たようなことをくりかえすけれど、「いけない」のはこれからいまここで伝えようとしている遊びのルールにおいて「いけない」のであって、ぱっと一枚めくってあれこれ想像する楽しみも、もちろんあるだろう)。

 

 

諦念と軽やかさをもった〈読み手〉と出会う

 

 さて、朝のリーディングで、カードからなんらかの助言を得たとしよう。でも、その一日のある局面のなかで、そのカードの助言を実際に思い出し、その助言通りに行動する……といった流れが生じることはそれほど多くない。

 たとえば二〇二三年八月一日のリーディングでは〈ワンズのエース〉と〈0愚者〉が出て、そこから出てきた言葉は「いまだにこの世に慣れていないのをたまに思い出しながら生活すると◎」というものだった(どうしてワンズのエース+0愚者がそういう「読み」になるのか、というプロセスについては、またあとで)。けれど、その日の午後にほんとうに「うまくいかないなあ」ということがあって、「まあ、まだこの世じたいに慣れてないんだから、ぼちぼちやるか」と思えた……というようなことがあったのは記憶にない。

「でもそれでも構わないんだよな」と直感するとき、自分が朝のタロット・リーディングに期待しているのは一日を過ごすための助言そのものではないんだ、と思う。なんとなく、朝のタロット・リーディングの効能は、めくってそこからあらわれる言葉を書き留めたときに、ほとんどすべてはたされている、という気がする。

 朝のタロット・リーディングにおいては、その〈読み手〉があらわれることがなによりも大切なのだ。「人はこの世に慣れていない」という諦念をもち、「でも、だからこそ焦ることはないよな」という軽やかさをもった、そんなキャラクターと朝一番に出会い、それを一日の始まりにすること。それができたら、そのときの〈読み手〉の言葉は忘れてもぜんぜんかまわないし、たいした問題ではない。そういう〈読み手〉に出会うのは、出会うほうにもそれなりに準備が必要で、その心身の〈準備〉ができれば、それで充分なのだ。というより、それができたということが、その日の悪くなさをしめしている。

 ちなみに、現実の人間もそうであるように、〈読み手〉のキャラクターもその日によってそれなりに変化する。しかし、ここは逸脱しないようだ……という一線も、ぼんやりとだが、ある。その微妙なニュアンスについては、これからゆっくり見ていこう。

 

 

パブリックな日記としてのタロット

 

 さっき「タロット・リーディングの効能は、めくってそこからあらわれる言葉を書き留めたときに、ほとんどすべてはたされている、という気がする」と書いたところを読んで、「それは『アドバイスは思いつきさえすれば心に留めなくてもよい』という意味では正しいけれど、やることは残っている」と思った。出た二枚の図像をスマホの写真に撮って、それといっしょに思い浮かんだアドバイスなりなんらかのセンテンスを不特定多数の読み手に提示すること、だ。毎日めくって書かれる言葉が一種の日記だとするなら、これは即日にパブリックになるタイプの日記ということになる。

 おそらく、この「公(おおやけ)にする」というプロセスがなければ、そもそも毎朝定期的にタロットカードをめくったりしているかは、あやしい。自分が毎朝つねに知りたいことがあるわけではないし、自分とカードあいだで完結するやりとりを毎日続けることにも、それほど魅力を感じない。

 タロット・リーディングであらわれた、つまり〈カードの絵柄〉と〈カードをめくるわたし〉の接するところにあらわれた〈読み手〉の存在が、ある程度世界に共有される(可能性がある場所に置かれる)、ということが重要だということになる。自分とカードだけの関わりの外に出て、はじめて実体になるのだ。

 毎日、ここで生活が持続している、ということを伝えるのが面白い。タロット・リーディングができない日は、できない、と書く。めくってはみたがなにも読み取れないときも、写真だけをあげて、わからなかった、と書く。そうすると、そこからなにか読み取って助言を送ってくれる友人もいる。

 この項には、いくつかに分けるべきテーマが混在しているのに、書いていて気づいた。あとでまたゆっくりと書こうと思う。いまは、毎日続くことと、それがおおやけになることが朝のタロット・リーディングにとって肝心である、と言うにとどめておこう。いまここで付け加えれば、「励ます」という行為が、自分自身だけではなく、自分以外の存在も対象にしてはじめてはたされるタイプのふるまいだということが〈パブリックな日記としてのタロット・リーディング〉に関係している、と思う。

 そうやって(ほぼ)毎日やっていると、スマホのアルバムには横向きにして積まれた山札の下に並んだ二枚の絵柄を撮影した、スクエアの写真が格子状にならぶことになる。その何十日かに同じ組み合わせのカードはまずないし、あったとしても、それはべつ日の文脈にあらわれたものだから、じっさいは違うものと思っていい(現実にまったく同じ組み合わせと順番でカードが出てきたら、シャッフル不足で「このあいだ出たカードがそのまま出てきたな」と思うのがほんとうで、そのときだけ混ぜ直してめくり直す、ということはよくある)。

 日々は、手ぶらで振り返ればぼやけた一瞬でしかないときもある。日記としてのタロット・リーディングの記録は、そんな日々を構成するそれぞれの一日がひとつも同じではないのを、絵柄の多様な色彩と模様で証明する。このとき、カードを置いたテーブルや布、そこにかかる影の違いなどもまた、それぞれの一日の比類のなさを伝えることになる。

 

 

タロット・リーディングをしない朝

 

 そして、日々のなかには、カードなんてめくれない日、めくって眺めてみてもなにも思い浮かばず、考えられない日、というのもある。それはいわば、仮にですら「世界を味わう余地があると信じられる者」でいられないときで、過度に忙しかったり、焦っていたり、活力が減退していたり、体調を崩していたりするときだ。

 せっぱつまって、藁をもすがる気持ちで占いに行く、ということはあるかもしれない。でも、ここまで話してきたタロット・リーディングの観点からいうと、そういうときは無理にカードを表にしたり、なにか浮かんでくるまで長々と頑張ってみたりしてもしかたがない。やる気が出ない、絵を見てもなにも浮かばない、ということ自体をひとつのメッセージととらえて、休んだり、周囲に助けをもとめたり、溜めすぎていて手が止まってしまっている仕事にささやかでも最初の手をつけたりして、様子を見るのがいいと思う。

 後述するけれど、カードに「本質的に不吉」な絵柄はない。にもかかわらず、それが、映画に出てきて不穏な展開を暗示する小道具のように、悪い未来を予見しているように感じられそうだったら、それはカードをめくるときではない、というのがここでのスタンスだ。映画のなかで不吉なカードがバーンと出て、占い師が浮かない顔をしながら主人公に忠告する、みたいなのは、「どうなっちゃうんだ」と思って盛り上がっているけれど、いざ自分がやるとそういうふうに遊ぶ気にはならないものである。

 毎日つけている日記でも、途切れることはある。それまで自分が知らず知らずのうちに設定していた「日常」の範疇から逸脱してしまったと気づくようなときも、日記の手を止める。数日後か、数ヶ月後か、もっとあとになってやっと書き留められたりするような一日もある。

 そういう朝が来たら、タロットカードはしまっておこう。ここでのタロット・リーディングはある程度「日常」の感覚に支えられている。言いかたを変えれば、絵柄が出てそれに言葉で反応する、というルーティーンがはたされること自体が、ありうべき危機をすべて回避した、恩寵としての朝がそこにあるのを証明している。

 どれだけ困っていると感じていても、それができれば大丈夫、なのだ。

 

 

使っているデッキ

 

 いまメインで使っているのはU.S. Games社から出版されているGummy Bear Tarotだ。デザイナーはDietmar Bittrich。グミベアというのはお菓子のグミの熊で、そのカラフルなグミのクマが、一般にウェイト=スミス版とかライダー版といわれる(マイナー・アルカナにも多彩なイラストがついている、アール・ヌーヴォー調の、もっとも人口に膾炙したバージョンである)タロットの絵柄を模倣している(デザイナーはなんでもこの熊型のグミに魅せられて以来、研究の期間は二十年をくだらないとか)。

 タロットカードへのアプローチによっては、どのデッキが正統であってほかはダメだとかいう主張もあるだろうし、そこに面白さが見出されることもあるだろう。チリの映画監督でタロット実践者であるアレハンドロ・ホドロフスキーがマルセイユ版のこれこれのタロットこそ至高、と言ったなら、そのデッキの魅力を語る強力な言葉があるのをやはり期待してしまう。でも、それはそれとして、

 この〈タロット・リーディング〉は、そこにあまりこだわっていない。

 タロット占いもする占い師の友人は、自分にとってはなんとなく気になることがあったら質問する先生のような感じでもあるのだが、「気が合うデッキでやるのがいいと思う」とあるとき言っていて、自分もそのくらいで考えたほうがいいだろう、と思っている。つまり「気が合う」ということに、なにかある、と感じているということだ。だれかが主張する真正さに宿る魔術には警戒しても、「気が合う」という直感に宿る魔術はすすんで受け入れる、というのがここでのタロット・リーディングだ。

 グミベア・タロットのよさは、なんといってもそのゆるさで、とにかくユーモアがある。なんというか、スミス・ウェイト版の絵柄を「いっちょ真似してみよう」という感じで再現して、仮装大会を開いている。それを見る感じなのだ。台座に座っているカードのグミベアを見ると、下に足がついていなくて、服の下から短い足が盛り上がっている。そういう細部に笑ってしまう。裏面には4×4のカラフルなグミベアが整然と並んでいて、これも目にうれしい。

 これはなんだろう、と考えてみると、「真正ななにかがあり、それ以外は偽りである」という考えかたに感じている距離感だ、という気もする。「ホンモノである」と言われたときに感じる、「畏怖を感じさせよう」という力、「権威であることを認めさせよう」という力……タロット・リーディングは、こういった力とは関係がないか、むしろそれによって生じる不安や恐怖を退けようとする。

 朝、グミベア・タロットをめくったり、その写真を見たりする人が「これからの一日がシリアスであり、難しいものである」という認識を抱えているとしたら、グミベアたちはその隙間に〈いっさいは、しょせん冗談だ〉というメッセージをすべりこませる。すべりこんできても、深刻さはなくならない。でも、そういう視点が状況のいくらかを気楽にするなら、グミベアたちはそれを実践する。

 グミベアはカラフルで見ていて楽しいし、色をはぶいても、グラフィックが楽しい。遊んでいる感じが伝わってくる。タロット・リーディングは「しょせん」カード遊びだ。劇的な(なかでも悲惨な)運命をそんなカードに告げさせるような大それたことをするとしたら、それはかなり危険なことだと思う。この本のなかで、それについて深く語ることはないかもしれない(いや、どうかな)。「遊びなのだが、そんな遊戯にこそ宿る魔術がある」ということが、これから話したいことだ。

 

 

不吉さについて

 

 はじめてウェイト=スミス版のデッキを買って遊びはじめたとき、知人から「怖いカードがある」と言われることがあった。「吊られた男」とか「死神」とか「悪魔」とか「塔」がそれだ。確かに、暗示的にはたらくことは別にしても、なんとなく不気味な絵柄なのは間違いない。個人的にウェイト=スミス版の絵柄に感じるのはユーモアの欠落で、わかりやすさやある種の洗練を感じさせるけれど、それをモデルにしたグミベア・タロットのような、こちらを脱力させるような感じはない(余談だが、アラン・ムーアとエディ・キャンベルのコミック『フロム・ヘル』に「黄金の夜明け団」(ウェイト=スミス版タロットが生まれる土壌になった秘密結社)のメンバーであったウィリアム・バトラー・イェイツがちらっと登場する場面がある。そのときの、いかにも生真面目なモダニストという横顔が、いまウェイト=スミス版のデッキを見る視線に重なっている)。そういうわけで、このデッキは〈朝のリーディング〉にかぎっては「グミベアを読むための背が綴じられていない参考書」のようになっている(とはいえ、別の機会に、たまにめくってみることもある。デッキによって出てくる言葉が違う、というのは実感するところで、「ウェイト=スミス版をめくるとき」のことも、あとで触れるだろう)。

 グミベア・タロットのユーモアは、そうした不吉さにたいしても距離をとってくれるというよさがある。しかし、そうした不吉さはただ絵柄にだけ左右されるものではないだろう。不吉さは、未来に関係した悪いムードのことだ。だから「不吉」であることは、タロット・リーディングがしばしば未来の出来事についてコメントする――「占」ったり、「予言」したりする、と思われていることそのものと関わっている。

 この本の全体で伝えようとしているタロット・リーディングは、そうした未来や不吉さと、まず関わらない。どんなカードであっても、つねに「世界を味わう余地」への可能性をもとめるように読まれるからで、それは「現在」と密接に関わっているからだ。たとえば「悪魔」のカードに描かれている、鎖でつながれた者たちのイメージは、「やがて解除されるべき抑圧や制限が(いま)ある」というふうに読むことはあれ、「やがて繋がれる未来が来るだろう」という読みはしない。

 つまり、ここでのタロット・リーディングには、未来形の時制が極端に制限されている。例外はあるが、それはまた別の項で説明されるだろう。

 未来が単純に不可視である、ということを、不安や不穏なものと一緒に認識しようとする力(もしくは、そうしないと、不可知である未来を認識しづらい、という力学)が、ものごとを物語にする行為じたいに備わっている、ということなのかもしれない。そのために、「未来は視ない」としてもなお、出てしまった絵札に、これから待ち受ける不吉さをどうしても読み取ってしまうことはある。

 そういうときはどうするか。

 ひとつには、「未来に実現する悲劇」とイメージしたものを、「いま実現している不安」と翻訳する、という対処療法がある。あなたは不安な状態にあり、それを和らげるほうに動いてみてもいいかもしれない、とタロットが告げている……というふうに読んでみてもいいかもしれない。この点では、タロットのセラピー的、心理的なアプローチを重要視している。

 ここでは、未来を言い当てるような超常的な力とはべつの、しかし魔術的ではあると筆者は感じているような、力の話をするだろう。

 

 

とはいえカードをめくらせる不調もある

 

 ここまで来ると、まるで快調なときにしかタロットカードはめくるべきではないかのようだが、もちろん、不調のときこそめくるカードもある。

 不調にもいろいろあるけれど、ここで話しているタロット・リーディングに向いている不調は、見当識の失調、ともいうべきものではないか。「見当識」は「時間、場所、周囲の状況などについて正しく認識する能力」のことで、これがうまく働いていない、と感じられたとき、カードは格好の枠組みを提示してくれることがある。

 他人のこんがらがった事情については、じつはそれほど込み入っていない、という認識にも達しやすいし、それにコメントをすることもできると思えるのに、それが自分となった途端、考えれば考えるほどよけいにこんがらがっていく……という経験をする人は少なくない。ひとつには、身体の輪郭がじつは「自分」にはない、ということがあるだろう。完全に閉じた輪郭でひとりの人間がつつまれているのはあくまで「他者」であるときで、人は自分で自分の輪郭を把握することはできないのだ。鏡のような言葉やイメージを外に出して見つめられるようにしないかぎり、自分については、ただ自分の意識がどこまでも広がっていくだけで、状況を簡明にしてくれるアングルは存在しない。

 そういうとき、カードは〈自分の輪郭(状況)を外から伝えてくれる他人〉のジェネレーターになりうる。自分の現状を語っている、という仮定で絵柄を眺めるとき、その絵柄は輪郭のある存在だが、自分のことでもある。カードは、他人に言えることを自分には言えない人が使う、意識をスイッチする道具でもある。

 ただし、これはタロットカードの専売特許ではない。知り合い、本、音楽、映画といったものはすべて、受け手の妄想ではないとしても、いつもいくらかその受け手の鏡でもあるようだから。でも、そういったもののなかでも、カードはとりわけ手軽さにおいてひとつ抜けている、と言えるかもしれない。シャッフルして、並べて、めくるだけ。

 

 

タロット・リーディングと挿絵入り小説

 

 スティーブンソンの『宝島』、ヴェルヌの『二年間の休暇』、ウェルズの『タイムマシン』といった冒険・SF小説は、偕成社文庫で読んだ。それぞれに日本版描き下ろしの、あるいは原著に付された挿絵がついていて、それ抜きでこれらのストーリーを想像することはできない。ところで挿絵画家といえばなんといっても佐竹美保だ。平成初頭生まれで十代前半にジュブナイル・ファンタジーをよく読んだ子供たちのなかで、彼女の挿絵を一度も見たことがない人はあまりいないだろう。ロッダの「ローワン」シリーズ、上橋菜穂子の「守り人」シリーズ、ウィン・ジョーンズの「ハウルの動く城」、『封神演義』『西遊記』……。本の挿絵というのは不思議で、絵本ほどテキストとイラストがのっぴきならない関係にはなく、挿絵がなければストーリーが成立しない、ということはまずない。佐竹美保の名前を書いたら気になってGoogleで調べたらインタビューが見つかった。「もり上がったり感動したりする場面はあえてさけ」るのだそうだ。「本は読者のもの。読者の想像する楽しみをうばいたくないのです」。なんとも微妙なバランスで挿入されているイメージたちなのである。

 タロットカードを「読む」というのになんとなくためらってしまうのは、カードがまるで本文のない挿絵入り物語のように見えることがあるからだ。文章を「読む」のではなく、挿絵を「見て」いて、そこから物語を「書き」はじめる。

 絵から読み取る、ということとの違いがそこにあるのか、と言われると、やることじたいはそれほど変わらないだろう。でも、その行為を「書く」と言える可能性に気づくと、「読む」という言いかたにはそれなりの独特なニュアンスがあると言えるだろう。なんというか、「このカードが出たら、こうとしか読めない正解がある(暗に書かれているものを読むだけなのだから)」という感じ。「書く」は、いっぽうで、辻褄さえあっていればどんなふうに言葉を書いてもいいし、その「辻褄の合いかた」でさえ、書き手の好きにしていい、という感じがある。

 だからこれから〈タロット・ライティング〉と呼ぼうじゃないか、と言いたいのではない。ただ、「絵柄が指し示す寓意を正しく読む」よりも、「絵柄から逆算して挿絵入り物語を勝手に書く」くらいのつもりで遊んでもいいんじゃないか、ということを思うのだ(それに「書く」ということは、「書かれている文字を見届ける」、つまり読む、ということの一変種だ。だからこれからも〈タロット・リーディング〉と書いていくことにする)。

 

 

韻を踏む

 

 挿絵から物語を想像する、というのは、挿絵が物語の内容に制限をかけている、とも言えるだろうか。

 同様に、朝一番にタロットカードをめくるのは、その絵柄に沿うという「条件」を課して一日の言葉を考えることだ。そういう言いかたをすると、「世界を味わう余白」を、むしろせばめるような気もしてしまう。絵柄がこうでなかったら考えられたことを考えられない……。

 これはいわば「形式」と「想像力」の関係にまつわる錯覚だ。

 詩の冒頭や末尾の音の要素をそろえる、韻を踏むという行為がある。韻を踏んでいる詩や歌詞を見ると、「よくこんなふうに音の縛りを守りながらいろんなことを言えるな!」という驚きがあるかもしれない。

 でもそれはじつは逆で、実際に音に気を遣いながら書いてみた人が知っているのは、「韻を踏むことは、それをしようと思わなければ閃かなかったものごとの繋がりを発見することだ」という実感だ。

 RhymeZoneというサイトが好きで、たまに立ち寄って遊ぶことがある。英単語を検索窓に打ち込むと、その単語と韻を踏んでいる単語をずらっと羅列してくれるデータベースだ。

 たとえば、いまけっこう疲れを感じているのだけれど、その「疲労」という状態について、韻を使ってなにか知ってみよう。「weary」(疲れた)と打ち込むと、結果は二六〇語。イメージに引っ掛かるものをいくつか選ぶと、「theory」(理論)「hara-kiri」(ハラキリ)「eerie」(不気味な)「cheery」(陽気な)といった単語が出てきた。

 ここから適当にセンテンスを膨らませて、詩のようなものを作ってみよう。

 

I'm weary

Is there any theory

for avoiding to be a bird of hara-kiri?

its feathers are green and eerie

it flies over the deck of Tarot cards, cheery

 

ぼくは疲れた

理論はあるだろうか、それがあれば

ハラキリ鳥にならないで済むような?

それは緑で不気味な羽根の鳥で、陽気に

タロットカードの山の上を飛んでいく

 

 

 疲れが極まると、やけになって自分が犠牲に(しかし、なんの?)なればいいんだ、と考えてしまう。でもそんな不穏な思いさえも、ユーモアの翼をあたえて飛ばしたい、と思っている書き手の心のようすが、「ハラキリ鳥」という名前と姿にあらわれるではないか。

 そしてもちろん、こんなことを考えたことはいまのいままで、なかったのだ。韻という言葉とイメージの翼がなければ。

 自分の心身の状態や置かれた状況をただ言葉にするのではなく、カードの絵柄に沿うように、つまりイラストという韻を意識して言葉にしてみると、ときには思いがけない発見があるはずだ。

 たとえば今日は、〈戦車〉のカードが2枚目に出た。疲れている、と思ってめくったのになんだか景気がいい、と最初は思う。でもよく見てみよう。勢いがあるけれど、戦車をあやつっているグミベアは肩に力が入っているように見える。そういえば、自分の肩も無意識に上がっている、と気づく。ただ疲れているだけではない。「疲れている」を「肩の脱力が必要な状態」に読み替えてみるのがきっと、いいんだろう。

 こんなふうにタロットのイメージは広がる。

 でも正直、ここまで書いてみても、「詩もどき」を作る過程を書いたときの楽しさが一番だった。この項では、韻を通じてタロット・リーディングを説明しようとしながら、けっきょくはタロット・リ―ディングを通じて韻のことを話してしまったようだ。

 

(つづく?)