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近所の夕暮れ 2020/03/06


窓を開けて換気しているしている間に短い散歩に出た。

近所の中学校のそばを通る道路の高架下にいつもいる猫が、今日もコンクリートのブロックと土嚢の山の上にちんまりと座っている。
目は弓でいうと弦を上にした半月型で、だからいつもいぶかしんでいるような顔に見えるけれど、じっさいにはどういう状態であるのかわからない。
近所に餌をあげるひとがいるのは知っている。しかし、最近は、散歩しているときに見かけない。
そばにボウルはあるけれど、そこに餌が残っているのを最近は見ていない。
そうしょっちゅう通りかかるわけではないから、たんにタイミングがあわないだけで、おそらくは食べ終えたあとなのだろう。
でも、餌をあげているひとになにかあって、この猫はひもじい思いでいるのかもしれない。
今度は餌を買ってまた行ってみようかなと思う。

公園に向かって歩く途中、カタバミの黄色い花を見かけた。

来た道は迂回しながら、ゆっくり遠回りして帰り、家に入ったら、まず手を消毒する。
部屋の窓をしめて回ると、西側はまだすこし明るいが街の灯が灯りはじめている時間で、こういうときにいつも思い出すのはボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』の一節だ。

「僕はそもそも夕暮れが好きで、それは何か大きなことが起こるかもしれないという気がする唯一の時だった。日が落ちた後の薄闇の中では、すべてのものが、すべての通り、すべての広場がより美しくなり、すべての人が夕方の町を歩いているとパンジーのように美しく、それどころか自分まですてきな若い男になったような気がしてくる。僕は、夕暮れ時に鏡に映った自分を眺めるのが好きだった。ショーウィンドーのガラスの中を歩く自分を見るのが好きだった。そればかりか、薄闇の中、指で顔をさわると、口の周りにも額にも皺が一本もないことに気づき、夕暮れによって、一日の生活の中で美という名の時が訪れたことに気づくのだった」(石川達夫訳、松籟社、2007年、p.80)

ヴァーツラフ・ハヴェルの『力なき者たちの力』(阿部賢一訳、人文書院)を少しずつ読んでいる。
『あまりにも騒がしい孤独』とハヴェルのこの本は、同じ国の同じ時代を分かち合っている。