今日は緊張(テンション)に任せて活動しすぎたかもしれない。 言葉が止まらなくてずっと文章を打って、書いてしていた。 ちょっとまだ興奮状態にあるけど(23時前)、 そろそろ休まないとたぶん反動がくる。深い落ち込みが。
今日、ボブ・ディランが新曲を発表した。夜、イヤホンで聴いて、 ピアノの最初の一音で、言葉を失って、 聴きながら何度も涙が出そうになった。なんて声だろうか。
ロバート・シェルトンによる伝記『ノー・ディレクション・ホーム ボブ・ディランの日々と音楽』の翻訳に関わったとき( 思い出話をお許しいただきたい)、未熟さゆえに、 周りを巻き込み、自分も近しい人たちもそれなりに無傷ではすまなかった… というふうに、わたしはその経験を覚えているのだけど、 そのときいったい自分がなにをやっていたのか、 いまもまだわかっていない。この16分越えの曲を聴いても、 やっぱりわからない。
すべてのやってきたことについて、そうなように。 でもそれは起こったことで、 それはいま起こりつつあることにつながっていて、 あらゆることは、ずっと流れてきて、流れていくんだと、 痛切に感じた。
こう書いてみても、 それでこの曲を感受したときのことを言い当てたとは言えない、 でも、書き留めておきたい。全身の毛を逆立てて、 いまやらなければ、とわたしを駆り立てていた力も、 皮膚を突き抜けて心臓に達する音に撫でられたという感じがする。 そいつはまだ眠くないと言っているけれど、 呼吸はすでに変わっている。それがわかる。
この音楽が、今日一日かけてわたしがわたしに隠そうとしていた、 悲しさや寂しさを明かしてみせてしまった。それでよかった。
なにもなすすべもなく、外出自粛要請の週末がくる。でも、 わたしはいろんなことを、 なんとかしてコントロールしようとしすぎたのかもしれない。 離ればなれになったら、再会の約束をするだけなのだ、いつも。 それを顔に出さないこともある。でも、それでよかったのだ。
Murder Most Foul