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小沼純一『sotto』(七月堂、2020年)


川野太郎

2020/04/18


『sotto』(七月堂、2020年)は「詩集」ではなく、一冊でひとつの詩が展開していく。

 

詩が収められている、というとなにか取りこぼしている気がするのは、この本に、絵本のような特性を見ているからだ。いいかえると、めくるという行為が、描かれて、話されていることと連動している。視界にまだ入っていないページのことを想像する時間、「つぎはどうなる?」がある。これはいわゆる物語ではないが、ページ番号のふられた流れがあり、サスペンスがある。

 

詩が本という箱に入っているのではなくて、本じたいが詩の構成を担っている。だから、仮に文字だけを抜き出したら、それがたとえ引用ではなく全文の再掲載だとしても、まるで翻訳したように、なにかが抜け落ちるだろう(もちろん、翻訳されたものがそうであるように、残るものもあるだろうけれど)。

 

歌とか言葉は、それをどのように聴いたか、ということが聴き手の鏡になる、そういう仕組みのなかにある。書かれたものは動かなくても、その響き方が本を開くときによって違うのだとすれば、読み手はどうしたって本を「読破」することはできない、ということになる。それはこの正方形のちいさな冊子にかぎったことではなく、あらゆる本、また楽譜の特性だった。

 

そり

かえる

(p.62)

 

が「反り返る」でありえるなら、「橇 帰る」でもありうる。そのふたつのどちらが「正解」であるかを同定する根拠はこのテキスト上にはなく、どちらも可能性として同時にそこにある。読むたびにちがう。それはたんにテキストが未整理だというのではなくて、読み手は、物語として整理される前にもじつは存在する、自分の輪郭を眺める。

 

あるいはまた、

 

から

くる

(p.79)

 

を、「手 絡めてくる」と読むわたしが、いま、ここにある。いま人々から隔たって、親密さのことを考えているわたしがここにある。一方では、「手から 目 手 来る」と読んでみるわたしがある。声をつかって短く刻みながら、いま抱いている不安の兆しを確かめている。おびやかされるという予感には、意味をばらばらにしようとするところがある。なにかが迫っている、というイメージだけは残しながら。

 

こんなふうにわたしは、読むことでわたしの輪郭を、描いては消し、描いては消ししている。前につなげたり後ろにつなげたり、行を分かってみたりしながら、どんなふうにも読める。その楽しさを考えると、これは遊びだという気がする。

 

だが、どんなふうにも、とはいっても、いくつかの読みをうながす言葉の独特な並び、またこの本の姿というものもやはり、ある。その佇まいについてあえていうなら、「親密であるということ」に近づくよう(あるいは近くにある親密さに気付くよう)、「そっと」誘っているようだ、といまのわたしは感じている。

 

いちどは「かみ」を「紙」「神」「上」と読んだわたしは、この詩の佇まい(といまのわたしをとりまく状況)に導かれてほとんど間をおかずに「髪」と読み、「か(あるいは)身」と読んで、官能するわたし、に思いあたった。そして生きものとしての身体と、紙(本)と、「神」とのつながりを想像してみたりした。

 

明日はまたちがうだろう。


©Taro Kawano