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水原涼+安田和弘+岡田和奈佳『震える虹彩』(2020年)


われわれが動くと、水平線も動く。

ーーアントニオ・タブッキ『遠い水平線』(須賀敦子訳、白水社、1996年)


 

 水原涼+安田和弘+岡田和奈佳『震える虹彩』(2020)が届いた。

 

 水原涼による小説と安田和弘による写真集、形式の異なるふたつの作品を纏めた一冊で、左開きの小説と右開きの写真集が隣合わせになっている。どちらにも「震える虹彩」というタイトルがついているけれど、小説にも写真にも、お互いのモチーフに言及するようなところはない。ページの真ん中で奥付の記された紙に隔てられた、それぞれが独立した作品である。

 言葉と写真を近づけると、相乗する効果や、独特な緊張感が生まれる可能性がある。でもその一方で、言葉で解説されることで写真の意味は狭まるかもしれないし、写真を添えられることで言葉は言葉に固有の、風景を書き留める力を失うかもしれない。『震える虹彩』はこうした危険をしりぞけて、読み手がそれぞれべつの機会を設けて、写真と小説とに触れられる構成になっている。キャプションによってメッセージを限定されてない写真を見て、また、選ばれた細部が語り手の感情と視点を伝える小説を読むことができる。

 そうはいっても、また、この小説にとって半身が写真集であることと、この写真集にとって半身が小説であることの意味を考えずにはいない。両者が一冊の本として出会っていることで、互いが互いに独特な感触を残していると感じられる。風景との出会いが、言葉をつうじて、写真をつうじて、どのような形であらわれるのか、どんなふうに違ったアプローチで関わるのかを、考えさせる。

 ふたつの作品を束ねるのが、内容以上に背表紙という「かたち」であるからには、この本のデザインじたいが写真と小説にとってそれぞれの内容の一部であるのは疑えない。べつべつに立つ写真と小説が反響しあうように、この本の色や布の手触りもまた、読み手が本をもってページをめくる手を媒介して、イメージとストーリーに浸潤する。

 写真家と小説家とデザイナーが声をかけ合って形になったという『震える虹彩』は、函入りの上製本、布装で、写真集のパートに淡い灰色、小説のパートにくすんだ白い紙が使われている。ふたつの「震える虹彩」はほぼ同じページ数を分け合っており、その中央の境目が、天地から小口にかけて水平線になっている。

 このデザイン自体が、なにかが出会うこと、への省察になっているとわたしは感じた。出会って持ち寄られたなにかが、ひとつの形になっているとは、どういことだろう? 説明は難しい。形になったものから、それを生み出した出会いの必然を説明しようとすると、根拠を与えようとするその振る舞いそのものによって、出会ったときの生々しい感触は失われるように思われる。

 そういうときは、触れ合ったその接触面を水平線にしてみる。それを見つめる。それで充分なのかもしれない。この本の作りについて、凝っている、という評言もありうる。しかし、目の這わせかたも違うふたつの本を一冊に纏めるときは、紙の色を揃えることのほうがむしろ余計な作為なのではないか。ふたつはふたつのままそれぞれあって、でも同じ場所に居合わせた。そのものたちの、もののはずみ、のようなものが、工夫を凝らされることで、逆説的に、すなおに、示されている。

 誰にとっても異論の余地なく運命的な出会いというのはないから、「あれはなんだったんだろう」と、わたしたちはーーときには過去の記念写真を眺めながらーーずっと考える。小説を読みながら、読み手は語り手の「私」が語るかつての出会いと別れの顛末を追う。そのとき、読み手も「私」も知っている。出会いの瞬間にあらわれた水平線が、それとの距離や向き合う角度によって、たえず揺れつづけるのを。

 われわれが動くと、水平線も動く。また次の機会に同じ小説を、写真集を手に取っても、そこには同じ言葉もイメージも、つまり同じ本そのものも、ないだろう。

About the Book: https://kissuisen.stores.jp/items/5e3972a4c78a5355ca6295e4


©️Taro Kawano