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いまは広場


川野太郎


二〇二〇年一月二五日・祖母と

 

「戦争のはじまってからは、運動靴なんかもなかったつよ。だけん、草履を編んでね。あの、米を取ったあとの、草がこう……」

「俵?」

「俵じゃないけど、俵をつくる材料なんかと一緒たい。米の、穂をとったあとだから」

「ああ」

「で、もう、あたしなんか子どもんときは、じいちゃんたちがこう、米買って、足で踏む機械で、米の粒を落として。もうそんな状態でずっと……。運動靴なんかももう、なくて、下駄はいて行ったり。もうどうかすっと、編んでもらった草履はいていったり」

「小学校二年生のとき?」

「二年生のとき戦争がはじまったわけよ」

「せんきゅうひゃく……」

「十六年だけん。昭和」

「うんうん。ふーん」

「もう、ね。たあだほら、ほんの子どもんときで、言われた通り、学校で聞いたのを、真に受けてしよったんだけど。自分だけそんな状態ならあれだけど、もうみんながね……みんな大変だったと思うたい」

「終戦はどうやってわかったわけ?」

「終戦ね。終戦は……」

「なんか、よくあるたい。ラジオでさ。〈玉音放送〉を聞いて、っていう」

「うん。重大な放送があるからってだけど……電気が来とらんけん、ラジオは……昔、小(こま)かラジオはあることはあったけど、電気が停電しとるから、直接聞いとらんと」

「へえー」

「今日は大事な話がある、ちゅうのはきいたけど、内容がなんかはもう、わからんわけたい。(電気が)ストップしとるから。で、戦争がおわったのが……そん頃はほら、小学校六年行ったら、女学校に――男子は男子の学校に――行くかで。で、女学校に入った年の八月たいね。だけん今なら、中学一年生の八月に、戦争が終わったわけよ」

「うん」

「で、そのあとも、二、三年、続いたのかな……あの、八景水谷公園」

「はいはい」

「いまは広場たい。あそこに、学校からね。あれはなんでだったんだろうねえ。あそこに、女学校に入ってから……あの、鍬で畑にしてね。からいもの……さつまいもたい。あれの苗をね、植えて。で、ほら、肥料なんて、「買ってきましょう」なんて、ないわけよ。道端の草を鎌で刈って、それがもう、肥料たい。根が生えるわけ、ないたいね。でもう、できたって小(こ)ぉまか芋しかできんわけよ。あたしなんかほら、田舎だけん、そこまでもらわんでもね、家にあるけん、もう、わけてもらったつは、市内から来よる人たちにあげて、あたしなんかそれはもう、もらってきたことはないけど……まあ、おいしくもないはずよね」

「じゃあそれはもう、学校で、八景水谷公園で造るごとなっとって、食べるものがたりないひとは、そっから、わけて」

「わけて。生徒にわけてやりよんなった。ほで……雨が降れば外の仕事はでけんでしょ。雨が降れば学校に行って、まあちょっと、勉強がありよったったいね。天気のよかときは八景水谷の公園で」

「畑仕事」

「うん」

「それはもう、戦争終わったあと?」

「終わったあとたい。あと二、三年、そんなしとったねえ」

「へえー。二、三年てでも、三年で終わろうたい? 学校は」

「うん、そのあとまた変わってから、中学校が三年、高校が三年になったったい。制度が変わってね」

「高校に行ったってことか」

「うん、高校は、あたしたちがあの……高校の一年から始まったのは、あたしたちの年代から。だけん、あの……ま、女学校まではほら、五年だったったいね。入ってから五年で、卒業しよったわけよ」

「六・五だったってこと? 小学校六年で、そっから女学校五年」

「うん、うん。で、戦争が終わってから、小学校が……いやあの、中学校が三年、高校が三年の……」

「合せて六年か」

「……で、卒業したわけたい。高校に行くあいだももう、靴なんかないとよ。下駄はいていったり、なんのときだったかな……藁で草履を作っとの……あれは学校でだったかな……そぎゃん状態を過ぎてきとります」

「その、終戦する時の、話は、家で聞いたと? 戦争終わりました、っていうのは。電気がきとらんくても、なんかこう……伝言で」

「うん、なんか、そぎゃんして聞こえたっでしょうね。もう……ラジオはほとんど聞かれんだったっんだけん。もうやっぱほら、まだあの……途上国ちゅうか、あの、ね、そぎゃんしてあの、生活しよっちゅうとが、あたしたちも、あがん過ごした頃と一緒じゃないかなと思うとたいね」

「似たところはあるかもしれんね」

「ねえ。ちょうどあたしたちが高校三年生、卒業する前に、はじめてあの、修学旅行のね、始まったわけよ」

「へえー」

「で、いまはほら、積み立てなんかしたりして行くでしょう」

「うんうん」

「あぎゃんとがぜんぜん、準備もなんもしとらんだったし」

「急に、やります、ってなるわけ?」

「うん、で、田舎は農業をしよってね、厳しかったったけん、あたしなんか行かれんて思うとったったい。そしたら、東京のおっちゃんのね」

「おお」

「あの……このままあれしとっても、あたしなんか旅行なんてね、行ける状態じゃとてもないけん……「せっかくだけん行かせてやって」って言うてやんなはったったい。だけん、じいちゃんの、お金出してやんなはったっでしょうたいね。はじめての旅行に参加さしてもろうて。大阪城まで見にいって」

「ああ、大阪になるわけ。へー」

「うん。大阪まで行ってね。大阪城に行ったつは覚えとお」

「東京のおっちゃんっていうのは、ばあちゃんの、なんなの?」

「ん?」

「ばあちゃんの、なににあたる人?」

「わたしの兄さん」

「お兄さんか」

「二つ違いたい」

「そっか。じゃあ、お母さんのおじさんなわけだ」

「うん、わたしの兄たい。もう、いまは二人残っとっだけ」

「いつから東京におると?」

「東京はもう、済々黌(熊本市内の県立高校)出てから、宮崎の……いまは宮崎の大学に入ったでしょうけど……まえはあの、宮崎高専とかちゅうて、農業のほうのね」

「専門学校じゃないけど……」

「うん、専門学校に、そこに行きなはったとたい。で、そこ卒業して、ほして、就職していって。でもう、けっきょく、向こうで。もう、きょうだい七人だから。もう、上に、上におるからねえ。もやっぱ、一番下で、出て行ったっでしょうね」

「ふーん。一番下」

「うん、あたしの上だから。あたしが一番下」

「そうなんだ」

「ねえ、もう遥か昔の話だけどね、ほんと。もう、昔はやっぱね、子ども六人七人はもう、ねえ。たいがい多かったからね」

「大家族だね。通学は、片道何分? 家から学校まで」

「小学校は、二十分ぐらいかな。と、女学校は、上通りの、長崎書店」

「うんうん」

「あすこの、奥のほうにあったったい。いまはもう、ないけど。移ってるけど」

「長崎書店の奥のほうていうと、ずっと行くと坪井川が流れとるでしょ?」

「坪井川までは行かんと。長崎書店と、そん坪井川のあいだくらいに……」

「ああ。わかるわかる」

「あそこに、学校があったったい。あすこまで、一時間歩いて行きよったつよ」

「このへんから? もともと家って……そんときの家は……」

「そんときの家はね……」

「あ、でも、このへん?」

「もう、田舎の方でね。あっち行ったことないけん、(あんたは)わからんたい」

「ふーん」

「学校に行くとも、歩いて一時間……一時間じゃつかんだったなあ。一時間二十分くらい。歩いて学校行きよったったい。女学校に入った時はね」

「そりゃ、ちょっとした距離ねえ」

「そして、ちょうどあたしたちが、中学三年・高校三年になって、終わった頃、あの……いまの上熊本駅ね。あすこからちょっと坂のぼったところに、営林局ちゅうてあの……山の仕事するところのあったつよ。そこに女学校でてから就職したったい」

「えいりんきょく? りんは林でしょ。えいは営む?」

「そうそう。いま林野庁て言うたいね。あそこに入って。うん、そこまでもやっぱり、ちょっと一時間ばっかかかって歩いて行きよったったい」

「じゃあ、本妙寺の近くたい」

「そうそう、あの反対側になったったいね」

「そうか。本妙寺は裏手だもんね」

「うん。ね、人の一生ってあっというまよ、ほんとね。八十八だもん。ほんなこつ……去年、八十八のお祝いのね」

「おお」

「なんちゅうと……」

「なん、盾みたいのがあると?」

「賞状のごたっとをね、老人会から去年貰ったったい。もうそん時はさすがに、「わー、もうこぎゃん年になったか」と思うた、自分で」