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ベランダから


真殿琴子


 ベランダは大事な話をする場所には不向きな場所なのかもしれない。

 もしかしたら、わたしたちの大事な話は近くに住む誰かにも聞こえてしまっているかもしれないし、猫も心配するからだ。

 

 トルコでわたしが出会った人たちの家にはたいていベランダがあった。

 昼間は日差しが強いが、夜は涼しい風が吹く。「外で座りましょうよ」と当たり前のように誰かが言って、気持ちのいい夜はベランダに出る。ベランダでの団らんはトルコの夏の風物詩なのかもしれない。外の世界にせり出したベランダは人々の憩いの空間で、おしゃべりの本拠地だ。

 あるいは、喫煙者が多いトルコ社会において、ベランダは喫煙者のための特等席、そして昼間の専業主婦にとっては、ご近所さんの情報収集のための秘密基地である。ベランダの機能がこんなにも豊かなことを、わたしはトルコに行くまで全然知らなかった。あれもこれもと指示されるがままに、料理やお茶、おつまみのナッツ、お菓子などをベランダへと運ぶ。何往復もしているうちに、わたしはふっと笑いたくなる。食べたり、飲んだり、おしゃべりしたり、時にはボードゲームで遊んだり、お母さんの肩を揉んだり、お姉さんの髪を櫛で梳かしたり、楽器を演奏して歌を歌ったり…。生活が家の中からベランダに移される、そのことがちょっとおかしく思えるからだ。

 トルコの人たちの中でも、特に都市部の住人は洗濯物を外に干さない人が多い。特に下着などは、ご近所の目に触れることは忍ばれて、外干しは一般的にあまり好まれないようで、そのような事情を知らない時に注意を受けたこともあった。トルコにいると、そんな風に外では常に誰かの視線にさらされているという観念がなんだか日本よりも強いなあと感じることが多々ある。それなのに、家の一部でありながら外でもあるベランダという微妙な空間に日常生活のあれこれがそのまま持ち込まれている。それは、わたしにとって奇妙なことだった。そして、そう思うにつれ、ベランダという特異な場所に不思議な愛着がわくようになった。

 

 これまでベランダで交わした会話は山のようにある。

 例えば、ある友人は自ら経験したいくつかの不思議な話を教えてくれた。そのうちのひとつは、エミル・スルタンと呼ばれる聖者の墓廟で、トイレ掃除のボランティアをしたときの話だった。エミル・スルタン廟はブルサ市内で特に有名な宗教スポットで、国内・国外問わず数多くの参詣者が訪れる大切な場所だ。ブハラに生まれブルサに移り住んだ彼は、数多くの奇跡を起こしたことにより、スルタンの娘婿に迎えられ、エミル・スルタンと呼ばれるようになったという。その墓廟において、友人は二、三人のグループで、トイレ掃除をしようということになった。しかし、途中で洗剤などの化学反応で気分が悪くなってしまい、仕方なく帰宅することに。帰宅してからすぐに、ベッドに横になると眠ってしまい、夢を見たという。彼女は、夢の中でずっとエミル・スルタン廟にいた。そして、目が覚めると体調は元に戻っていて、その日以降、長年水仕事で荒れやすかった手がまったく荒れなくなったという。

 ある種の奇跡や神秘的な体験というのは、自分を大きく見せるための自慢にも、勲章にもするべきでなく、こっそり誰かに話すか、胸の中にしまっておく方がいい。家の中とは少し区切られているベランダという不思議な空間は、そういう秘密の話をするにはちょうどよかったのかもしれない。友人の息子さんが自室でゲームに夢中になっている間、わたしたちもベランダでおしゃべりに夢中になっていた。途中で彼女たちの飼い猫がベランダに入ってきて色々な悪さをした。猫は飼い主がなかなか寝室に来ないので、痺れを切らした様子だった。

 

 また、イスタンブルで足繁く通った図書館の近くに住む人は、天気の良い日はたいていベランダにいた。わたしは時々彼女の家の前の通りに寄り道して、「今日はいるかしら」と様子をうかがいに行っていた。都合のいい時は家に招いてくれて、夕食をごちそうしてくれた。夏だけイスタンブルに住まいを移し、普段はアンカラに暮らす彼女とその家族との親交は深く、彼女はわたしを「三番目の娘」に認めてくれた。実際は、彼女はわたしの祖母の年頃である。しかし、わたしにとってはトルコの母だ。

 ある日、彼女の家に招かれ、ベランダでお茶をしている時、研究は順調に進んでいるのかと尋ねられた。わたしは何とも答えられない代わりに、自分が読んでいる本を紹介することにした。そうして、トルコのイスラーム研究の大家であるアブデュルバーキー・ギョルプナルルの分厚い本を彼女の手に渡した。彼女は少しその中身を読んでから、「まるで父が話しているようね……」とつぶやいた。彼女の父親やギョルプナルル(一九〇〇年生まれ)の世代だと、生まれは今のトルコ共和国成立(一九二三年)以前の時代、つまりオスマン朝時代である。

 オスマン朝から共和制への移行に伴い、文字はアラビア文字からローマ字表記に変換され、「純粋な」古代のトルコ語の語彙をもとに作られた新しい言葉が広められていった。こうした劇的な言語政策によって生まれたものが今のトルコ語である。そうして新しく創られてきたトルコ語に慣れているわたしにとって、ギョルプナルルの文章は難解であり、更にそれを懐かしむ彼女の言葉遣いも少々堅苦しく聞こえてくる。事実、彼女と話している時にアラビア語由来の難しい単語があって、ぽかんとしていると、彼女に少し残念そうな顔で「わたしの話すトルコ語が分からないのね」と言われたことがある。時には、「あなたに分かるように簡単な単語を使っているのよ」とか「あなたの使うトルコ語が時々分からない」と言われたりもした。彼女は折に触れて日本語や日本の国語教育について質問してきた。それは、日本人のわたしが持っていて、彼女たちが持っていないものが何かを明らかにし、失ったものの大きさを確かめるようでもあった。

 彼女はその分厚い本をパラパラめくった後、一呼吸置いてから言った。

「共和制になってから宗教活動は制限されたし、言葉は変えられた。あなたが言うような、イスラーム研究ができるような状況では決してなかった。わたしは学ばなかったんじゃない、学べなかったのよ。わたしたちへの風当たりはきつかった。アラビア語やオスマン語が勉強したくても、学べる機会がなかった。それでも、わたしのお父さんやお兄さんたちは、モスクに通ったりして勉強していたわ。でも、過去とのつながりは国家によって断ち切られてしまったのよ。だから、わたしたちは結果的に己自身を知ることができなくなってしまった。」

 時間はめまぐるしく過ぎ去っていく。次々と積み重なって消えることのない何かに直面してもなお、人の一生は行くべきところへ行きつくように、あるいは完全なる偶然の連続かのように進んでいく。わたしはなぜかイスタンブルのベランダにいて、血のつながりのない母とお茶をしながら時を共にしている。そして、自分よりずっと長く生きてきた彼女の心の内にふれて、じっと沈黙するしかできなくなっていた。彼女はそんなわたしに「面白い本ね。どうせあなたにはこの本は難しすぎて読めないと思うけど」と本を返してくれた。

 

 ベランダは特別な場所である。

 そこで時間は瞬く間に過ぎていった。人々の会話はたわいもない話題から始まって、あらゆる方向へと広がっていく。話の合間に、ふと柵の向こう側の風景へと目を移すと、隣家の屋根の上でカモメが鳩を追いかけているのが見える。向こうのプールでは子供が楽しそうに遊んでいる。路上にいる人たちのあいさつの声が聞こえてくる。ベランダはまるで外の世界の中に浮かぶ島のようだ。その不思議な空間は、人の内にある喜びも悲しみも包み込むような場所でありながら、そのようなものとは全くの無関係であるかのように淡々と移ろう外の世界をのぞかせているのだ。


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