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木を感じる 2020/06/22


午前7時過ぎ、曇り。

 

夢の中で泣いた。何に泣いたかは覚えていないけれど、どこかに座って、嗚咽した。

耐えるのがおわった、という感覚で、こういってよければ解放された気がした。

夢で見てみれば、これはたしかに「現実」でやりたかったことだ。

夢の出来事はまだこちらにこないが、そのうち来るかもしれない。それを待ちたい。

 

ハワード・ノーマンの2007年の「Bomb Magazine」のインタビューで好きな一節がある。

 

「作家をしている友人いわく、わたしの小説のなかでは、ふたりの人間がついにやっていけるようになったり、ふたりがお互いへの愛情を宣言できるようになったり、一緒に暮らしていけるようになったりするのは、彼らがあらゆるネガティブな可能性に疲れ果てるからなんです。たしかにそれは『バード・アーティスト』にも、『Lの憑依』にも、そして最新作の『献身(Devotion)』にも当てはまります。おそらくこれが定型なのでしょう、わたしにとってもっともしっくりくる語りの戦略なのです。書くことについてわたしが持っている理論は多くはないのですが」

 

まさにそうだ。ノーマンの小説のキャラクターには待つ力があり、それが最悪の状況を物語に登場させる。その物語のバイオリズムがわたしにもしっくりくる。民話ということでもあるのかもしれない。そこには前触れと事件がある。

 

昨日、EP(ミニアルバム)をつくった。最近の鼻歌をまとめたもの。7分くらい。

 

Kanmoku EP Vol.0

Taro Kawano

https://soundcloud.com/user-774856839-589953195/sets/kanmoku-ep-vol0/s-jMZQgOKLa9S

 

「Kanmoku」とは「緘黙」「感木」(こちらは造語)のこと。

 

わたしには定期的に、人前で言葉が喉につかえて、なにか話すことがいたたまれなくなることがある(いまがけっこう、そうである)。そうしたときに気づくとやっていたのは、1日の終わりや束の間の休憩時間に、ギターを触りながら人の歌を鼻歌で歌うということだった。最近、その心身の現象を「緘黙(かんもく)しているときは、感木(かんもく)したいとき」なのではないか、という風に考えるようになった。緘黙はだんまり、失語のことだが、そういうとき、ギターのボディ(木)に反響する音、振動を、身体が求めるのではないか、と。そして人の歌は、自分の声で歌えるけれど自分ではない人の感情や経験に根付いていて、人に会いにくいときも他者を感じられる。

 

もっぱらわたしが、ある心身の状態の時期の記録、日誌として、自分のためだけに作ったもので、技術面では歌もギターもどうしようもなく生半可でいわゆる向上心もないので、人によっては、液漏れ電池のような不愉快さを感じる人もいるかもしれないけれど、もしよければ(人によっては、なにかの理由で、鎮静効果があるらしい)。ジャケットの写真は去年の十月にフィリピンで撮影した。最初のトラックは去年の八月の蝉の声、最後は去年三月の、材木座の海の波音。