· 

阿部結『あいたいな』(ひだまり舎、2020年)


川野太郎

2020/08/11


作家のうしろに、絵本の神様たちがいるような気がして、胸がいっぱいになった。いいかえると、作家が、これまで作られてきた絵本の宝物を受け取って、手渡しているような感じがした。

 

どういうところを見て、そんなふうに感じたんだろうか?

 

物語がシンプルなところ。言葉と絵がちがうことを伝えていて、そのずれが、リズムのある音楽のように感じられるところ。たとえば、おなじ言葉がくりかえされるとき、そこにある絵のちがいによって、言葉の意味がちがって響いてくる。そのくりかえしとちょっとしたちがいの積み重ねで、物語が育っていくところ。つまり、絵と言葉が、絵本ならではのやりかたで、かけあいをしているところ。 

 

そして、いま起こっているいろいろなことが、雨となって降っているところ。

 

いま、この大変で不思議な二〇二〇年の夏だから、わたしはこの雨が、わたしたちを互いから遠ざけているウイルスや、それにともなう社会のままならない状況の「たとえ」でもあると感じる。この絵本のエネルギーの源が伝わってくる気がする。

 

でも、もっと時間が経ったら、この本が二〇二〇年の夏に発行されたことにどれほどの意味があるだろう? とも思うのだ。

 

たとえば五十年後のある雨の日に、発行年などごちゃまぜになった図書館の本棚からこの本を手に取った子は、表紙に描かれている雨を、そのまま、窓の外に降っている雨と同じものだと思うのではないだろうか。雨はなんの「たとえ」でもなく、五十年後の公園に降る雨そのものになるんじゃないだろうか?

 

ウイルスならウイルスを、まっすぐウイルスと言わないのは、絵本(または詩やおとぎ話)ならではの、遠回りだ。でもその遠回りが、特定の時間と空間から、物語をすこし、とき放つ。そういう絵本は、一見、いつの時代に作られたものかわからなかったりする。いつ開いても、絵本を開いた「いま」とまっすぐ関係があるように、読む人にかかわってくる。

 

マックスの「かいじゅうたち」がそうなように。

 

もちろん、すべての絵本がそういうふうに作られているわけではないし、すべてがそうでなければいけないわけでもない。伝記や、歴史を伝える絵本だって、その特定の人物と時間をはっきりさせながら、でもやっぱり「読んでいるいま」とつながっているんだ、と感じさせることが、もちろん、ある。

 

でも、雨のような普遍的なイメージを通じて、時間と場所を超えている感じが、わたしがいくつかの絵本を好きな理由でもあった。そういうふうにして、この絵本は、いまこの二〇二〇年の会えなさだけでなく、会いたいけれど会えないと思う、過去の、未来の、あらゆる瞬間につながっている。

 

そしてまた、前例がないと感じられるいまの事態のおおもとが、じつは雨降りのような天災なんだ、ということを気づかせもする。人間同士の付き合いの難しさという形でとらえがちなこの出来事を、地球のはるかに大きなはたらきとしてとらえることも、促している。

 

こうした、絵本という芸術が受け継いできた楽しさや力強さが、『あいたいな』にはつまっている気がした。

 

あやちゃん、れいちゃん、まーちゃん、けんちゃん。この絵本にでてくる、雨のせいで公園でいっしょに遊べない友達たちを見るたびに、「あっ、いまここに、いる!」と思う。ちょっと小首をかしげたり、腕をめいっぱい広げたりしているときの彼らに、わたしはふと、ルース・クラウス&センダックの『あなはほるもの おっこちるとこ』に出てくる子供たちや、昨年に旅立ったジョン・バーニンガムが描いた子供たちを連想したりした。ただタッチが似ている、ということではなくて、絵本のなかに登場するひとたちが、いまたしかに踊ったり、ままごとをしたり、本を読んだりしている、と感じられる。

 

いろんな時代に、世界のたくさんの作家たちが絵本のなかに子供たちを登場させてきた、その歴史があって、それを作家が知らなければ、こんな絵本は生まれなかったのではないだろうか?

 

やはり昨年に旅立ったトミー・ウンゲラーの『すてきな三にんぐみ』がちらっと登場している。ウンゲラーも、クラウスも、センダックも、バーニンガムも、どこかで『あいたいな』を読んでいると思う。温故知新(昔のものごとをたずねて、あたらしく知ること)の作品には、そういうことが起こる気がする。


©️ Taro Kawano