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2020年今年の一冊・高橋亘『残せなかったものたち』


一年という区切りで見聞きしたものを振り返るというのはあんがい面倒で、年間ベストなんてわざわざやらない、でもそんなことを言っても、年末に散歩しているときにふと「言い残したことはないかな」と思ったりするもので、今年の私にとっては高橋亘の写真集『残せなかったものたち』(自主出版、二〇二〇年)がそうでした。

 

撮影された場所は、主に撮影者が暮らす大阪市西成区の、釜ヶ崎。スクープ写真ではありません。ここで、こんなに素晴らしい、あるいはたいへんなことが、起こっているのですよ、という写真ではない。ここにあるのは、撮影者の言葉を借りれば「気がついたころには遠くに流れていってしまい、見落としてしまうほどに小さな日々の中」にあったものばかりです。

 

そしてこの本は、それぞれの写真にうつったものを、ひとつの土地の名前のもとにまとめ上げるような写真集でもありません。一冊に纏められた写真を順番に見ていて感じたのは、一葉の写真がどうしても喚起するひとつの構えのようなものを、次のイメージがすっと解除していく、心地よいリズムでした。見ている私に残ったのは、これは日々移ろっていく視線なんだ、ただそれだけなんだ、という思いです。

 

そう感じたとき、「残せなかったものたち」というタイトルがあらためて迫ってきました。「写真で残す」という言葉がよく写真の宣伝文句になるけれど、それはほんとうだろうか? 目の前のフレームに収まってこうして見えているものは、残らずに過ぎ去ったものなのではないだろうか。残っているから見ることができるのではなく、残らなかったものを見ることができるということ(このふたつは微妙にしかし決定的にちがうことだと思います)、それが写真を見るという魅力、また謎なのではないか。

 

眺めていると、自分がいつか見た、しかしもういまはないものを振り返っている。なぜなら、撮影された場所は私の住んでいない町だとしても、昨日、自分の近所を散歩していて感じた光に通じる光が写っているとも思えるからです。ここには知らない瞬間の、その瞬間にしかないものがある。自分の想像や思い込みの外側に、たしかに存在しているひとやものたちがうつっている。それは間違いない、間違えることはできない。でも同時に全体を通じて伝わってくるのは、私も知っている気がする、日々の呼吸ともいうべきものでもありました。

 

他者の苦痛が存在していることを知らせるのも、イメージのする重要なことである。でも一方で、過ぎていったものを振り返る時間が、不思議と現在を肯定していると感じられるイメージのことも、忘れないようにしたい。

 

 

九月を過ごすことになっていた旭川に出発する前日、この写真集が届きました。埼玉で見ても旭川で見ても、見えるものは同じような気もしたし、ちがうような気もしました。

 

今年は、二十代の前半からずっと傾注しながらも最近は少し距離をとっていた、詩人であり映画作家ジョナス・メカスの作品とあらためて向き合い始めた年でもあります――彼もまた、不断に過ぎ去る現在を撮影し、残していくことで、それを見るものにさまざまなことを問いかけたアーキビストです。

 

『残せなかったものたち』の横に並べたいのは、イラストレーター・阿部結の絵本デビュー作『あいたいな』(ひだまり舎、二〇二〇年)。二月の末ごろからの「コロナ禍」の状況を直接のきっかけ(のひとつ)にしながらも、それを、ありふれた雨降りのシーンに込めて、短期的な時事性を超えて残る視点で語られているという点で、私のなかで通じるところがありました。

 

一年間のこうしたことが『残せなかったものたち』のまわりに、おのずと像を結びました。そういった個人的な視点からも(いや、ほんとうは個人的な視点からでしかなにも書くことはできないのだけど)、今年の一冊、になりました。

 

official site: 高橋亘/残せなかったものたち




©️Taro Kawano