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雷 2021/03/13


午後。しっかりと雨の土曜。

外出しようかと思ったけれど、雷が鳴っているのでさすがに控えることにした。

 

昨日の夜、すごく調理をしたくなくなっていた。

 

自分に親切にする、もてなすということができない。自分がそれに値しないということを思い出し、頭を離れなくなったからだ。そんなふうに「存在しているということはおかしなことだ」という事実が迫ってくるのは、それほどめずらしいことではない。数年前だったら、お前はだめだ、と自分にいって絶食したかもしれないけれど、いまはそういう自意識に「まあまあ」と言いながら、お湯を沸かしてコーンスープを飲むくらいはする、それから早めに布団に入った。

 

多少は慣れているので取り乱してはいないけれど誰かに伝えたくもあって、友人に伝えると、彼女の返信には「多分昨日3・11だったこともあって、気持ちが不安定になりやすくなってるのもあるかも」とあった。心に残った。それがすべてではないけれど、無関係であるともいえないと、確かに感じたからだと思う。友人は、私がそう感じたといっても笑わないと思う。

 

大勢の今日生きている人間の感情の流れ、思いの方向が変わり、どっと流れる一日で、それを感じているわけだから、普段通りというほうがむしろおかしい。昨夜はその強い流れが、自分が生きていることの不自然さ、わからなさ、言葉は強いけれど、胡散臭さ、みたいなものがよく見えるように、いろいろな、忘れるという技や、忘れてこそ可能になる思い込みを、流し去ったのかもしれなかった。

 

…こうして書いてみると、いまの考え方は、ひとつのテーマにそって状況を説明してみた、一種の嘘だと思う。一日の自分はもっといろいろなものが行き交う交差点なのであって、そうたやすく説明がつくものではない。とはいえ、毎年巡ってくるある一日に心身が反応することは納得できる気がする。ひとつ思うのは、その日に、その日だからということで言葉を発するという不自然さだ。不自然だからいけない、というのではなくて、なにかを言葉にするというのはもともと、心身の反応に遅れて、ないし先駆けてなされるはずで、日付に促されて、その日付にぴったりあわせて発された言葉はあたりまえではない、ということ。その日付に向かって言葉が用意され、発される。その日付に起こる感情の流れや知覚の変化に絶句して、倒れて、それからやっと話しはじめるのではなしに。それは、言葉を発したそれぞれの人たちにとって、どんな現実なのだろう?

 

その日付の翌日の夜に倒れ(というと大袈裟だが)、深夜2時すぎに目覚めて、それからまた寝て今朝起きたのは10時すぎだった。それからようやく10年前のことを思い出す、が、それでもやっぱり言葉にならない。今日は自分に食事を出す。