晴れ。暖かい日。午後店番。
ちょっとだけ、いろいろ思い浮かぶようになってきた気がする。
毎日のあらゆることを何らかの形にしてアウトプットしてーーつまり、なにかあるたびに、書いたり、プレイリストを作ったり、歌ったりして発表してーーいて、ふと「これはなんだ?」という気持ちになる。書き留められた断片には含まれなかったこと、あまりに個人的なので「公開」することは控えざるをえないような人間関係やそのなかで起こる出来事はどこにいったのか。そういったものこそ「真髄」ではないのか。そもそもその「真髄」という考え方に誤謬がないか。しかし実感としては……
こうしたことを考えていると思い出すジョナス・メカスの日記の一節を、去年の2月に訳して日記に書いているけれど、誤訳があったのであらためて引いてみる。「ときどき書くことに救われる。そして、どうやら、ときどき、
まちがいなく日記作者の言葉だ。
ところで「life」の訳語はいつも考えてしまう。「人生」とすると、いのち、生命のイメージが切り離されて、喜怒哀楽のある人間の歩み、物語の感じが強くなり、なんか違うな…と思う。「life」にはもっと一瞬のうちに感じられる要素がある気がする。それで「生」とやってみていることが多いかもしれない。じつは、あるとき「世界」と訳したこともある。これまた曖昧であり、だから便利で、あまりに便利すぎるので立ち止まってしまう言葉だけれど、このときの「life」には、「生の全体が感受するいま・ここの状況のすべて」というような感じ、「わたし」が感じとっている印象のすべてがそのまま「わたし」であるような感じ、判断より目眩の感じがあると思って、そうした。「わたし」の「生」のよろめきはそのまま「世界」のよろめきであるような「生」と「世界」。しかしそれは、「わたし」が感じること、その感じ方がすべてで、その外側にあるものは関係がない、というような唯我論ではなく、むしろそこには、外の世界の確かな感触にこそゆるがされる「わたし」がいる。
…未熟な誤訳だと言われればその可能性を考えないではないけれど、これしかなかったし、いまのところ、これしかないと思っている。あるときその訳稿を、原文を知らないまま読んでくれたひとがいて、彼女は原著で200ページ弱あるテキストのなかから「世界」と訳したその一節を指さして「ここがいちばんよかった」と言った。それにほっとしたのを覚えている。