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日記作者の言葉 2021/03/27


晴れ。暖かい日。午後店番。

ちょっとだけ、いろいろ思い浮かぶようになってきた気がする。

 

毎日のあらゆることを何らかの形にしてアウトプットしてーーつまり、なにかあるたびに、書いたり、プレイリストを作ったり、歌ったりして発表してーーいて、ふと「これはなんだ?」という気持ちになる。書き留められた断片には含まれなかったこと、あまりに個人的なので「公開」することは控えざるをえないような人間関係やそのなかで起こる出来事はどこにいったのか。そういったものこそ「真髄」ではないのか。そもそもその「真髄」という考え方に誤謬がないか。しかし実感としては……

 

こうしたことを考えていると思い出すジョナス・メカスの日記の一節を、去年の2月に訳して日記に書いているけれど、誤訳があったのであらためて引いてみる。「ときどき書くことに救われる。そして、どうやら、ときどき、書くことに心底うんざりすることもあるようだ。なぜなら真に、十全に生かされているものに、書かれる必要はないから。それはおのずと、あとかたもなく燃え尽きる。涙は書かれなくてはならないか? では祈りは? 握手は?/わたしの生もそんなふうだったらいいと思う。/でもいま、わたしはこの生を讃えるために書く…/十全たる生は果実のようだ、おのずと熟して、落下する。/いま、それはわたしの頭のなかに居座って、わたしを食っている、食い破って出ようとしている。」(Jonas Mekasの『I Seem To Live』より、1950年6月29日の日記)

 

まちがいなく日記作者の言葉だ。

 

ところで「life」の訳語はいつも考えてしまう。「人生」とすると、いのち、生命のイメージが切り離されて、喜怒哀楽のある人間の歩み、物語の感じが強くなり、なんか違うな…と思う。「life」にはもっと一瞬のうちに感じられる要素がある気がする。それで「生」とやってみていることが多いかもしれない。じつは、あるとき「世界」と訳したこともある。これまた曖昧であり、だから便利で、あまりに便利すぎるので立ち止まってしまう言葉だけれど、このときの「life」には、「生の全体が感受するいま・ここの状況のすべて」というような感じ、「わたし」が感じとっている印象のすべてがそのまま「わたし」であるような感じ、判断より目眩の感じがあると思って、そうした。「わたし」の「生」のよろめきはそのまま「世界」のよろめきであるような「生」と「世界」。しかしそれは、「わたし」が感じること、その感じ方がすべてで、その外側にあるものは関係がない、というような唯我論ではなく、むしろそこには、外の世界の確かな感触にこそゆるがされる「わたし」がいる。

 

…未熟な誤訳だと言われればその可能性を考えないではないけれど、これしかなかったし、いまのところ、これしかないと思っている。あるときその訳稿を、原文を知らないまま読んでくれたひとがいて、彼女は原著で200ページ弱あるテキストのなかから「世界」と訳したその一節を指さして「ここがいちばんよかった」と言った。それにほっとしたのを覚えている。