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九月の御守り 2021/09/03


終日雨。

 

急に涼しくなったからか、鼻がむずむずする。昼から店番。

 

絲山秋子『不愉快な本の続編』を買ったその日に読む。途中何度も笑い、ほんとうに興奮した。「とくにこういうところ」とは言えず、ひとつの声が持続している、それを追うことにただ没頭した、のだけど、たとえばこんな感じーー

 

「こうしてボクは出発した。一年間都内の予備校の寮に入って浪人して、大学に合格したらあとは調子にのってやりたい放題かと思われたが、どこかでボクはボクの妄想を追い越してしまったらしい。/ほんとうはどういう人間なのかと聞かれたら、不愉快な本の続編みたいなもんでしたってはぐらかすかもしれないね。それでも、芋虫の割にはがんばったんじゃないの」(p.8)

 

とにかくあったのは、この声を追うことの喜びである。

 

…急に副産物的なことを書いてしまうが、読み終えてすぐ、その印象が残っているあいだに自分の訳稿を見ると、まだまだよくなるぞという気持ちになった。その感覚は幻想といえばそうだが、幻想だということで価値がなくなるわけではなく、このイメージこそ大事だと感じる。「こんな文が、声がありうるんだな」と思えることが。見上げている視線の先にあるものだけが、ひとに見上げる姿勢を取らせる。そして『不愉快な本の続編』は、自分にとってそういう小説だった。

 

ところで、「これこれの小説が好き」というと、場合によってはそれを「その小説のなかに出てくる人物の葛藤なり来歴なりが自分に重なって共感できて、慰められた」という意味に翻訳されることがあるけれど、あえて言うなら、小説はそんなにみみっちいものではない。それが言いすぎだとしても、たとえば、投影と共感と慰めばかりが小説の面白さではない。じゃあなんなの、と訊かれると、今日の日記に書くには荷が重いから、また改めて書きたい。

 

読み終わったとき、なんというか「自分の読みを示すことを躊躇してはいけない、それに怯んだら声は聞こえない」という勇気が出ていた。訳文の推敲が大詰めのときに、こんなふうに自分のなかに力が湧く文章に触れているということは大切で、いつからか、それぞれの仕事(テキスト)ごとに、そういう御守りのような本がある気がする。この本は九月の御守りだ。

 

絲山秋子の小説は、いっぺんに何作もドカドカ読むことはせず、タイミングをつかむアンテナだけをとがらせて、いま、と思ったときにひとつ、読む。だからまだ『沖で待つ』『薄情』『離陸』『逃亡くそたわけ』そして今回の『不愉快な本の続編』しか読んでいない(エッセイの『絲的ココロエ』もあった。おもしろかった)。どれも読むと「よかったなあ…!」と思う。でも、読んだ直後であるのを差し引いても『不愉快な本の続編』は特別な気がした。なぜかはよくわからない。次に手に取るのは、『不愉快な〜』と同じ主人公が出てきて、この小説に先行するという短篇「愛なんていらねー」が収録されている短篇集『ニート』だろうか。それもやはり、わからない。