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川野太郎⇨真殿琴子 一通目 2021/09/10


真殿琴子さま

 

今日はじつに一週間ほどぶりの青空が見えていて、ここから見える植物の緑も日光を反射して光っています。眺めれば眺めるほどよくわからないけど、すごいなと思う。これらがあってそれらがこの目にうつっていることがわからないし、すごい。

 

なんとなく決まった往復書簡の題名(「ききみょうみょう(奇々妙々)」)を考えていてあらためて思ったけれど、「不思議だな」とか「へんなの」と思っている時間に、つねづね、とくべつな好意と関心を寄せています。

 

しんどいことがないときや、あったとしても、時間帯とか天気の変化とか友達と喋った余韻とかのおかげで、ふと重荷を感じなくなってぼんやりしているときに、自分がここにいる巡り合わせを「よくわからないなあ」と思って、それを面白く眺める気持ちになることがあります。そういう意味で、自分にとって「奇妙な(奇妙さを感じている)時間」は「過酷な時間」の反対側にあるものなのかもしれません。

 

その時間は、「幸せだな!」より「よくわからない」が多めです。だからといって不幸だということはなくて、なんというか、幸不幸もふくめた自分への評価がそっちのけになって、なにかに心を奪われている状態です。

 

一方では「この時間をあとから振り返ったら、幸せな時間と呼ぶのではないだろうか」と思っていたりはしていて、そう思うことを繰り返していると「振り返ったら幸せに見えるかも…」がだんだん「いま幸せ」に近づいていく気がしています。その濃度が上がってくるのを感じている。

 

もう何年も気になっている人にウィルフレッド・オーエンというイギリスの詩人がいます。なんで気になっているのかはよくわかりません。第一次世界大戦に従軍した人で、塹壕と毒ガスの戦争のことを書き留めたことから「戦争詩人(war poet)」と呼ばれたりもしています。そのオーエンの詩のなかに「Strange Meeting(奇妙な出会い)」という詩があって、それを思い出したりもしました。

 

死んで地獄に降りた語り手が、ある人物と出会う。その人物は語り手に、自分のこと、自分が果たせなかったこと、戦争の惨めさを語る。そして最後に、ぼくはきみに殺された敵なんだ、と打ち明ける…という内容です。戦死したひとりの兵士があの世で「敵兵」と邂逅するのが「奇妙な出会い」なのです。オックスフォード大学出版局から出ている学生向けの解説本("Oxford Student Texts: Wilfred Owen Selected Poems and Letters")によれば、「ぼくは君が殺した敵なんだ、友よ」という一節に「戦争の無益さと無意味さが凝縮」されている。末尾をためしに訳してみると、こんな感じです。

 

ぼくはきみが殺した敵なんだ、友よ

この暗闇でもきみがわかった だって

やっぱりそんなふうに顔をしかめただろう、

昨日、きみがぼくを刺し殺したときにも。

身をかわした、でもぼくの手は力もなく冷たかった。

さあ、一緒に眠ろう

 

「奇妙だな」というものの見え方には「ノーサイド」(戦いの終わり、敵味方の「側」がなくなること)の感じがあると思います。「なんともいえないけど惹かれるな」と思っているときは、どこかぼーっとしていて、いつも無防備というか。ここにかぎらず心がけていることですが、ここでも、厳しいときがあっても、ノーサイドである時間を見逃しすぎずに書き留めたいと思っています。どうなるかわからないですが、そういう時間に感じたこともここでは書いてみようかなあ、と。