快晴。いかにも嵐の後の空という感じ。日中は汗ばんだけれど秋の気候だと感じる。
原稿直しもぎりぎりの進行だけれどまあまあ進んだ。いま午後8時だが、あと少しできる。
知り合いの書店(Rabelais Books & Theatre)が休日に読む本のタイトルを募集していた。
変わっているのは、その際に提出者の星座も添えること。12星座でブックリストを分けるのだ。
自分は蠍座なのだが、こういうときに思いつくのはやっぱり蠍座の詩人である北村太郎だった。
太郎でおなじ名前だし、自分の誕生日は北村太郎の命日と重なっているのである。
そういうわけで、北村太郎の詩集『港の人』の版元のリンクを書店に送った。
『港の人』の復刻版には平出隆が解説を書いていて、そこで語られるエピソードがけっこう心に残っている。
平出隆が北村太郎の担当編集者だったとき、平出は詩人に「なんだ、きみもさそり座か。だったら、気をつけたほうがいいよ。パーティーには、努めて出るように。でないと、ぼくみたいに詩壇からハグれちまうぜ」と言われる。平出はそれを思い返しながら「詩人の星占いはほぼ的中したようではある」と思うのだ。
おなじ解説文のなかで言及されている「ススキが風上へなびくような」という詩を、2年前にノートに書き写していた。まさに『港の人』の解説を読んでそれを知って、気になって書き留めたものだ。写しているときのことをよく覚えている。住んでいるところからひと駅先の図書館でだった。
この詩にはまえがきのような散文があり、そこにはこうある(ノートからさらに写す)。
冒頭ーー「宿命というものがあって、人の一生をあらかじめ決めてしまうと考えたことはなかった。手相とか占星術とかによって自分の運や行く末を告げられても、暗い顔をしたり喜んだりする時折はあるにせよ、もともとそれらを信じていないのだから、長く心に留めて、いつまでも気にかけはしなかった」。しかし、筆者の身に起こったいろいろが彼の世界の捉え方をすこし変えて、最後の段落はこう書き出す。「いまのわたくしは、宿命というものを半分は信ずるようになっている。もしも〈半分〉という信じかたができるとしての話であるが。三年近く前、そう考えざるをえない行為を自分が無意志かつ無意識にしていたと気づいたときのわたしの驚きはじつに甚しかった。神とはいわないまでも何ものかの手がわたくしを操っているのではないかという気すらした。つまり、わたくしは自分の未来をいい当てる詩を幾つか書いてしまったのである」。
自分の占いにたいする姿勢は北村の文章と重なるところがある。それを聴いていて楽しんでいる時間があり、といってそれほど重く受け止めたことはない。でも「宿命」を「半分信じている」ふしがある。そうでなければ、北村太郎や平出隆が蠍座で、その間に、かつて蠍座同士のやりとりがあったことが、心に残ったりはしないだろう。
やっぱり生は
死のやまいなんだよ
つまり
死は健全であって
それが病気になると生になるんだ
(『港の人』第19篇より)
*
全然べつの話。前から曲自体は知っていたけれど、今日あらためて歌詞をよく読んだ歌。Townes Van Zandtの"I'll be here in the morning"。最初に知ったのはJason Molinaのカバー。
寂しい線路に吹く風より強い風はない
立ち去った町を振り返ったときの眺めほどすてきな眺めはない
でも、ぼくの心のなかにある愛ほどリアルなものはない
目を閉じて ぼくは朝もここにいるから
目を閉じて もうしばらくはここにいるから
道の先にはぜひとも見たいものがたくさんある
風に身体をあずけて ぼくは自由なんだと感じたい
でもきみのいちばん小さなささやきも
ぼくに呼びかけるハイウェイの声より大きい
目を閉じて ぼくは朝もここにいるから
目を閉じて もうしばらくはここにいるから
(…)