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川野太郎⇨真殿琴子 三通目 2022/01/20


真殿琴子さま

 

年末に書くつもりだった返信を、心身の不調を感じて、お休みしました。なのでなんとなく仕切り直しの感じがあります。そのブランクがなかったかのようにはじめるのか、やっぱり不調だった時間について書くのか、いろいろ考えたのですが、けっきょくはとりあえず「書けないくらい不調でした」と言って、それから、いまいちばん考えていることを書くことにします。どうも反省とか言い訳には「奇々妙々」なものを感じる感覚を鈍らせるところがある気がするので、遅れたことについてはそれくらいで。

 

さいきん考えていたのは、真殿さんの友人と、彼が撮り溜めている写真のことでした。

 

その写真はトルコと日本で撮られています。世のなかには絵画や劇映画のようにオブジェクトを配置して撮影する写真もありますが、かれの写真はたぶんそうではなく、たまたまそのとき居合わせたものを撮影しています。もっぱら日本に暮らすわたしにとってトルコは「異国」ですが、調味料が置かれたトルコのカフェのテーブルを撮ったかれの写真を見ていると、「自分の知らない、こんな場所があるんだな」という思いとともに、「自分の近所の喫茶店も、こんなふうに新鮮な目で見られるかもしれないな」という気もまた、してきます。

 

つまり、知らない場所への親しみを感じます。

 

いっぽうで、比較的見慣れた(と思い込んでいた)東京の風景写真には、「それがそこにあること」への驚きみたいなものを感じます。ありふれていると感じていた光景と出会いなおす可能性を感じさせる。そんなかれの写真を見ていて思い出すのは、イタリアの作家アントニオ・タブッキの『遠い水平線』という小説の一節です。主人公が自分の部屋の窓とそのそばにある水差しを眺めるシーンでーー

 

「何年も前のある日、自分はこの水差しを買って、窓のそばのチェストの上に置いた、それだけしか、彼には説明できなかった。しいていえば、ふたつの『もの』の間に存在する繋がりとは、彼の目が両方を見ているという事実だけだった。いや、なにかもう少し、ある。すなわち、ある日、彼がこの水差しを手にとったとき、これを彼に買わせるちからのようなものが、どこかで働いたにちがいない。そして、いまは忘れられた、衝動的な手の動きこそ、ほんとうの繋がりだったのだ、そのときの手の動きにこそ、すべてが、世界と人生が、宇宙が、秘められていたのだった」(須賀敦子訳、白水uブックス、1996年、132ページ)

 

こんなふうに、いつもかたわらにあるものにたいして、驚異の感覚が生じる、もしくは蘇る、そういう写真(ここは小説とか映画とか音楽とか、広く芸術と言い換えてもオーケー)が好きです。

 

どこにいてもこれらはありふれていてかつ驚異である、そんな土地への入り口(写真)は、「どこでも生活が営まれている」という実感に繋がっている気がします。思い出すのは、ハワード・ノーマンの小説『Lの憑依』日本版の解説文にあったこんな一節ですーー

 

「知らないところを恐れ、ときにさまよい出て、失敗し、日々にしがみつく人間がいるだけなのではないか、どこでも。これはけっして絶望的な世界観ではないようにわたしはおもう。人間とはそういうものかもしれない。やがては死すべき存在であるわたしたちの限界を忘れ、恐れるもののなくなったひとは、吹雪の中に裸足でさまよい出ていく酔っ払いのようなものなのではないか。物質文明の限りない発展が人類すべてに幸福をもたらし、宇宙にロケットを飛ばす技術が平和な未来を築くという世界観を、もはやわたしたちは信じられなくなっている。これまで通ってきた道を振り返り、違う世界観を再発見することを、わたしたちは切実に必要としていないだろうか。」(中村和恵、2003年)

 

わたしたちは(いや、わたしは)、移動したとたんに自分の厄介ごとを一瞬で晴らすような新天地がある、というような考えにますます懐疑的になっています。(かといって、移動の効能は否定できません。移動の効能はたぶん、行き先が楽園かどうかとは関係ないのでしょう)。どこでも、生活があって、ただそれだけ。たとえほかの惑星に植民地を広げてもーーまたSFですーーあるのは生活だけ。彼の写真のトルコを見ると、新鮮な、見慣れない風景が写っているとしても、それはそこに暮らす人たちにとっては暮らしの舞台なのだということがわかります。あらゆる点でかけ離れているかもしれないけれど、生活しているというその一点を分かち合っているかも、と思わせます。

 

ではその写真には、醒めた視線で捉えられた、無味乾燥だったり冷酷だったりする、日々の暮らしの地獄が写っているのか、というと、そういうわけではなくて、それぞれに、風景や人に挨拶している感じがあります。いつも熱烈というわけではない(接近しすぎていない)が、見かけたときにすこし離れているくらいだったら素通りせずに、目で合図して手を振る。そういう感じがします。ほっとするし、じっくりのんびりできそうな気がする。そこには、世界が有限であることを受け入れるための秘密があるかもしれません。

 

 

先の手紙にはたくさん問いかけがあって、いまもあたためています。なにより翻訳について。今年は去年より翻訳をすることが多くなりそうで、今日もやっていて思ったのは「自分はいなくならないな」ということでした。翻訳していると、結局は自分の読みを示すことになると感じるのです。でも一行ずつ「どうしようかなあ」と思いながら進めていると、「自分はどんな自分か」と考えるような「自分」、つまり「自意識」は、もしかしたら希薄になっているかも、と思いました。それはすごく大事なことだという気がしています。


Photo ©️ Imajo Naohiko


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