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真殿琴子川野太郎 二通目 2021/11/20


川野太郎さま

 

お返事ありがとうございます。

 

爪を見つめるという地味な視点から、S F小説の世界へ、また遙かなる宇宙へとお話を展開してくださり、とても興味深く読ませていただきました。人間の宇宙への関心は尽きないですね。この世に生まれたからには宇宙人にもなってみたいし、人間以外の生物にもなってみたいし、そればかりか神様にもなってみたいと願ってしまうのが人間なのかなと思います。

 

想像力というのは人間の永遠の友ですね。古代ギリシアの哲学にも「観想」という言葉がありますが、スーフィズムの用語にも「タファックル(トルコ語だとテフェッキュル)」という似たような言葉があります。大まかな意味は、考えをめぐらせることです。ちっぽけな人間がどうしてあれほど巨大なビルを作れるんだろう、と目の前のことに疑問を持つことから始まり、自己存在の不思議や創造主の存在などについて色んな気付きを得ながら真理に辿り着こうとする行為を指すらしいです。S F小説を読んでいるとぶっ飛んだ発想に出会うことがありますが、普段どんな生活してたら思い付くんだと作者の素行を考えてしまいます。そして、人間の日常から遠く離れたぶっ飛んだ物語であってもS F作品にはいつも予言的に、危ういこの現世界への警告が含まれていますよね。楳図かずおの『漂流教室』に出てくる未来人類も想像の産物ですが、人類があんな造形になるのかもしれない、という可能性をいつまで経っても100%否定できなさそうなのが面白いし、やっぱりちょっと怖いです。

 

あと、あまり関係ないですが、魚釣りする時に釣り針が海底の障害物などにひっかかってしまうことを「地球を釣る」と釣り人は表現するらしいということを最近知りました。こういう発想がわたしは好きです。それに、些細な失敗も視点を変えて見ると大胆な挑戦になってるのでは?!という教訓的なメッセージも感じました。(感じませんか・・・。)

 

 

川野さんも旅行をされたということですが、返事をもらってからわたしもとうとうトルコへと渡りました。餞別のような温かいメッセージがうれしかったです。

 

―「わたし」は「わたし」がいるその場所をひっくるめた「わたし」だから、「確固としたわたしが移動している」というより「わたしが動きながら変容している」のではないか。

 

この一文はまさに最近感じていることだなあと思いました。今はわたしはこの土地では珍しい明らかに東アジア出身の顔立ちの外国人であることも相まって、わたしの存在は「無」ではなく着実に「有」に傾いていると感じています。自分の身体は常に何らかの主張になっているし、自分の心情も意見も、自分の経験や常識を背景にもつ貴重なものだと、何となくポジティブに考えるようになりました。2年以上日本という名前の島の外へ出れなかったわけですが、トルコは自分にとって第二の母国のような場所になっていて、外国人の自分ために居場所を作ってくれている周りの人たちに本当に感謝しています。そして、自分がここにいるからこそ、周りに色んな変化をわたしが生み出していることにも気づきました。具体的に言うと、自分の意見がきっかけでこちらの友人がものの見方を変えたり、予定を変更したり、そういうこと全部です。わたしがいなかったらこうはなっていなかったかも、っていうことがたくさんあるんです。ルームメイトの生活は確実に変化させているわけですし(良くも悪くも)。結論として、わたしは動きながら変容しているし、わたしの周りも変容させている、だからわたしは今確実に「有」として存在してる!という実感があります。この感覚を味わうことはわたしの人生にとって本当に大事な体験になっています。

 

一方で、翻訳というものに取り組んでいる時は自分の存在を限りなく「無」にしようとしているとわたしは感じています。川野さんはどんな感覚でしょうか。ちょっと聞いてみたいです。ちなみに、わたしはアイロンがけする時も「無我」を目指します。あと、写真を撮る時も。何らかの対象を何らかの方法で語る時にどこに個性を置くのか。研究とも直接関わってくるような話ですが、気が向いたら意見をお聞かせください。

 

イスタンブルは急に寒くなってきました。雨が多いです。そして今日は月蝕でしたが見れずじまいでした。でも楽しい夜になりました。またお返事かきますね。