曇り、夜に雨。
四日振りの日記。なんとなくさぼった。26日は編み物を対面で習った。すこし前進した。
一昨日の深夜にひとつ、みじかい原稿を出した。知り合いや友人にも読んでもらった。
その文章の参考文献:
・ヴァルター・ベンヤミン「『経験』」
・チェスワフ・ミゥオシュ『世界 ポエマ・ナイヴネ』
・木村敏『時間と自己』
・ダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』
・Susan Sontag "Illness as Metaphor"
・Belle & Sebastian 'Nobody's Empire'(これは音楽)
思い入れが強かったのもあり、友人からの感想や提案をすぐに素直に受け取れず、ちょっと拗ねてしまった。
でも今日思い直したら、それらの言葉にいろいろとヒントが眠っていた。拗ねてしまって申し訳なくてありがたい。
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ところで(最近ずっと考えていたのだが)、このあいだ見たアントン・コービンの映画『コントロール』での意識障害の発作の描写がいまいちに感じる理由がわかった気がした。ひとことで言うと、あれは主人公であるイアン・カーティスの発作を外側からしか描いていないのだ。だから親密さがあまりないというか、主人公にたいして冷淡に見える。もともと即物的に描こうとしたのならそれでもいいのだが、なんとなく対象に「近づき損ねている」感じもした。
こう言うと「映画だから外側を描くしかないでしょ」と思われるかもしれないが、外面的な描写の連なりが内的経験のニュアンスを帯びている場合がある。もう十年近く前に見たからうろおぼえだが、トルコのセミフ・カプランオール監督による『蜂蜜』『ミルク』『卵』三部作に出てくる発作の描写にはその感じがあった。意識の混迷という経験が、画面やストーリーテリングの秩序にまで影響しているというか。
過去から未来へと直線的に流れる時間によらない語り方がそうだし、登場人物たちの、なんというか「自分はいまの自分ではない誰かでありえたしいまなおありえるけれど、いまはここにいる」とでもいうような、微妙な佇まい。「儚い」だと生々しさがなさすぎるかもしれない。その感覚は幻想ではなくて生きられている現実だから。あと、記憶のなかのあれらの映画の、光への感受性のあり方にもとても惹かれている。
かなり変わった、そしてたぶん自分にとって重要な映画だった。いまこそ見直したいな。