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信頼について 2022/04/03


昨日は晴れ曇り。寒い日。朝稽古、午後店番、夜スペイン語で、満載の1日だった。

今日は1日雨。午前中はほとんど寝ていた。頭痛がしたのでイブを飲む。夜に買い出し。

前日に聴いたJason Mrazの「I'm Yours」を歌ってみる。

 

今日、いま訳している小説の文章が頭と身体に入ってくるようになった。一月以来の感じ。二月と三月はどうにも無気力というか無感覚で、文を読んでもいまいち魅力がわからない、入り込めない、という状態が続いてしかたなかった。それでもできる分だけ続けていたのだが、今日はここ二ヶ月の感じとちがい、人物やストーリーや描写が有機的に息づいて(比喩だが比喩ではない)いると感じられるようになってきている。どうしてだろう? 生活の、この翻訳以外のことどもが動き出したからだろうか? ひとつのことが生き生きと動き出し、関係するためには、ほかのこととの関係も強張っていてはいけないのだろうか? 話したいひとと話したいだけ話したと感じたからだろうか? あれをやりはじめ、これをやりはじめることができそうだと思えているからだろうか?

 

わからない。わかるのは、ずっと大好きでいまも大好きであるはずの作品だって遠くに感じる時期というのはあるということで、だいたいそういうときは作品に内在する欠点にその隔絶感の根拠を求めがちだ。「じっくり読んでいたら、それまで気づかなかった綻びが目につくようになった…」とか。でも、そういうことは現実にあるとしても、それだけではない。作品と読者の接点にしか運動はないのだから、読者の心身の状態というのが無関係なはずがない。

 

それが色褪せて見えるときに、それとの生き生きとした関係が復活するはずだと、無根拠のまま信じて、投げ出さず、ゆっくりとでも続けることが大切で、そこで問われているのは判断ではなく意思だと思う。ひととの関わりもある程度重なるところがあるようで、このひとがずっと同じように好きとか、ずっと同じように関わるということはないわけで、やっぱりその都度起こる内外の変化とともにあのひとやこのひとと関わっている。そのひとのことが「わからなくなった」とか「距離が開いた」と感じたとき、「好きじゃなくなったんだな」という判断をするより、「いつか熱が戻ってくる」と思う、というか、そう「信じる」と決めることができるとき、関係はいつかわたし(あなた)に違ったものをもたらす、かもしれない。しかし仕事でもないかぎり締め切りはないので信じる結果はいつ出るのか、そもそも「これが結果だ」とわかるようなことがあるのかもわからないし、なにより、自分が信じていても相手という人間がどう思っているかはわからない。しかし信じるということはそういうことでもある。判断できないことと信じることのあいだには強い関係がある。信じるということは世界がその行為とともにしかないことを疑わないということかもしれなくて、だとすると世界を肯定するということでもある。

 

小説に戻ってこられたという興奮で上のようなことを書いた。