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ざわざわ 2022/04/07


晴れからやや曇り。胸がざわざわする。心当たりがありすぎて逆にわからない。

気持ちをしずめたい気持ちで午前いっぱい翻訳する。かなり進む。藤子不二雄A氏逝去の報。

 

14時を過ぎた。その日にやろうと思ったことの全部は終わらなそうだけれど少しずつ進んでいる。

この気持ちが夜には「少しずつ進んでいるけれど今日やろうと思ったことの全部は終わらなかった」というふうに反転する。

 

ざわつきが止まらない。あらゆることが静かにもしくは騒がしく動いていて、

いまは動いていないように見えるものもいつ動き出してもおかしくない気配がしないだろうか?

へとへとになるまでひたすらやるしかない。夜はちゃんと寝て。

 

ところで、キセルの曲「君と旅」を聴いていた。「誘ってもいいなら/僕と一緒に」というフレーズがある。「誘ってもいいなら」というのがふしぎで、許しをもとめるその言葉ですでに誘ってしまっている。断られることを未然に防ぎながら誘うことはできない…誘うということはそういうことなのだ。だから「誘っていいなら」と言うことと、誘うことは、ほとんど意味は同じ。でもニュアンスの違いがあり、ニュアンスこそすべてで、「あのひとに声を掛けるときの気持ちはこういう言い方でしかあらわしようがない…」というときはやっぱりある。「応じてもらいたいという気持ち」と、「こちらの願いとは無関係に相手がほんとうに応じたいか断りたいかを知りたい気持ち」が同居しているとき、というか。「応じられるか断られるかを知るには声をかけてみるしかない」ということを知っているのに、まだ「声をかけるまえに知ることはできないものだろうか…」と思っていて、決心がつくやや手前で、バランスを崩しながら誘うときの感じ。奥ゆかしい言葉のようでいて、じつは相手への、ふつうより深い思いを打ち明けてしまっているという感じ。アルバムではこの次の次の曲が「ハネムーン」。

 

(昔読んだエリザベス・ムーンという作家の『くらやみの速さはどれくらい』という小説(名作!)に、似たような場面があった。あの場面はすばらしかった。)