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「おじさん」 2022/04/14


雨。買い物した帰り、ひさしぶりに帰宅ラッシュ時間の電車に乗ったら目の前で「おじさん」ふたりが怒鳴りあいをはじめた。ふつうに「怖いな」と思うのだが、「おじさん」のルーキーたる自分は、また別の意味で自分の人生に影が差すのを感じる。つまり、「おれの仲間が怒鳴っている…」と思う。「おじさん」と言われれば、どんな性格のどんなたたずまいの「おじさん」も「おじさん」だ。おまえも「おじさん」なら、おれも「おじさん」。

 

このときの「おじさん」はもちろん蔑称である。

自分と他人を「おじさん」と呼ぶのを、今日からやめたい。

 

「おじさん」と呼ばれることになるのは不安だから、自分を守りたいがために思わず「自分は『おじさん』ですから…」と言ってしまうことはある。でも、そんなふうに「世間から『おじさん』と呼ばれる自分を客観的に見ているポーズ(ふり)」をどれだけしても、それはどこまでいっても卑下だから、状況をよくすることはない。結局はねじれた被害者意識を自分のなかに募らせるだけだ。それをやめたい。

 

電車でうっかり居合わせてしまったふたりが常軌を逸していて、そのどちらもがそれなりに歳を重ねた男性であるらしいとわかれば「またおっさんか…」と思わないのはまあけっこう、難しい。電車内の諍いすべてのケースを確かめたわけではないにしても、怒鳴りあっているふたりが「おじさん」ないし「兄ちゃん」(若い「おじさん」)でなかったことは経験上、ほとんどない。圧倒的に多い。その分布の偏りを無視できるはずがない。

 

でもそういうひとたちをひとからげにして「『おじさん』はこれだから…」と言うと(思うと)、その言葉は「おじさん」のルーキーである自分にも刺さる。自分で自分を「おじさん」と呼ぶのとほとんど変わらない。そうするとわたしは生きていたくなくなる…というのは言い過ぎにしても、毎日を生きていくことが自分を落ち込ませるものにしかならなくなる。

 

いま見ているドラマシリーズ「ストレンジャー・シングス」に出てくる町の警察署長・ホッパーは、四十歳前後だろうか? 男性で四十歳前後なら立派に「おじさん」で、しかもかれは「拳で語る」こともしばしばあるタイプだし、間違いも多い(余談だが、「ストレンジャー・シングス」の好きなところのひとつは、人格においてパーフェクトな人間がいないところ)。でもホッパーのエピソードを見ることは自分を意気消沈させない。

 

なぜだろう? 今日も1話だけ見る。5月末からはじまるシーズン4に間に合うように。