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生きる歓び 2022/06/26


快晴、猛暑。

 

最近、「毎日がつまらない」「苦しい」「いやなやつがいる」という話を何人かの知り合いから立て続けに聞いていて、身体に毒が回ったようで、自分までAに愚痴を言ってしまい、昨日は反省した。自分に愚痴を言ってきたひとたちは、でもそれなりに楽しいこともあるにはあるようで、なんとなく「いいこともわるいこともある人生のなかで、言葉にする値打ちのあるものはわるいことのほうだ」と思っている、というか思ってすらいなくてただそれを言っている、という感じがした。聞き手である自分が、どのようにしてか、ネガティブな話題を誘っているというのもあるだろう。そういう磁場であることはいいことなのかわからない。愚痴だってたまにはいいが、たのしいこともやっぱり語るに足ることで、「たのしんでいる自分を見てくれ!」みたいな押し付けじゃない新鮮な語りかたを考えるのがたのしいんじゃないのかな、と思ったりするけど、どうなんだろう。

 

…というようなことを、橋本治の文章を読みながら思っていた。『生きる歓び』という短篇小説集で、まだ二篇とちょっとしか読んでいないが、最初の一篇「にしん」を読み終わって「いいなあ!」と声がでた。有意義であったり役に立ったり社会の「まとも」な構成員として認められたり、立派だねと褒められたり、周りの人間より自分が高潔であると感じられたり…充実とか歓びって、なんかそういうんじゃないんだよな、という気持ちに、言葉が響いてくる感じ。がんばってもいいし、がんばらなくてもいい、なんだって一大事で、その一大事のどれも「たいしたことじゃない」ということと矛盾しないんだと、なにを言っているんだと思われるだろうけど、この小説を読んでいるとじんわりそう思えてくる。そして、そんなふうにふと感じたことがある自分の人生の瞬間そのものを思いださないまでも、なんかそのときの雰囲気、匂い、光の感じが思い出される。「なんでもないようなことが大切だ」という標語を掲げる作品のほとんどは、それを実感させるにいたっていないのでは、と思う。こういう小説を読むと。

 

去年の今日は、職場のおなじオフィスで短いあいだ一緒に過ごしたゴールデンレトリバーのシロちゃんが亡くなって、その棺が火葬場にいくのを見送った日だった。思わず笑ってしまうような瞬間もあったりした。

 

昨日は『ストレンジャー・シングス』シーズン4の前半6エピソードを見終わった。SFというジャンルの遺産を、よくもまあこれほど詰め込んだものだと思う。ナードははぐれ者ではなかったのだろうか。いいかえると既視感があるわけだけど、チャーミングなキャラクターが生き生きと動いているということの前に、そんな既視感がなんだというのだろうか。みんなを応援している。

 

これから1日外出。