晴れ。身体がだるくてなにもする気が起きない。
というかやってもなにも楽しくない。
20歳前後のブレヒトがある秋の日の日記に、こうして快調なときが来るから、絶望してはいけない、というようなことを書いていたのを思い出す。と書いていたら、じっさいの文に当たってみたくなってひさしぶりに『ブレヒト青春日記』(野村修訳)を出す。
1920年9月1日ーー
「(…)いまは好調な時期で、ぼくはフル回転している。不毛な夏のあと、一挙に満載の状態になったわけだ。こういう良い時期がくりかえし来るから、絶望するわけにゆかない」
同じ年の7月15日。
「人間関係には少々縺れがあり、ぼくはふだんほど元気ではなく、引き潮の状態だが、しかしいま、この夕方は明るい。たぶん秋にはまた強力な芸術を作りだせるだろう」
今年は毎月のような頻度で、自分がやっていることが問い直されざるをえないような出来事が起こっている。こうしたことどもに意味を剥がされていったらなにが残るんだろうか。自分がやることが虚しくなってしまったことについてAに話したら、Aのほうがそれの価値というか、良さを知っていると感じられた。満載の秋が来ないかもしれなくても、満載の秋が来るつもりで引き潮の夏を過ごすのがいいのだろう。
ある種の憂鬱は内面化された共同体の不具合だという考えに、いまは賛成だ。
だからそうなるのは仕方ない。と同時に、原因に文句ばかりいうのもつまらない。
昨日、いただきものの桃を届けてくれると言った友人がその前日に発熱した。
7月を見送る。