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蜂、コラージュ 2022/10/02


2日早朝。

 

うまく言葉が出ないまま九月が過ぎた。日記も然り。

翻訳をじりじりつづけて、ほかの仕事もして、あとは静かにしているという感じ。

 

印象的なこともあったのだが、書いていないと忘れる。

たとえば、職場の敷地内にスズメバチの巣ができていたとか。金木犀がはじめて香った日だった。

職員が隣と向かいの会社につたえてまわり、それを聞いた近所の人がふたり、巣の前で喋っていた。

ひとりは柴犬を連れた男の人で、犬はオフィスに尻を向けていた。犬は蜂とどういう関係にあるのか。

翌日、害虫駆除の人が高級外車でやってきて、巣を取って薬を撒いて帰っていったという。

蜂は戻ってくるが巣はなくて、そこに散布された薬品に触れると死んでしまう。

「二、三日は用心してください」と言われた、と職員の人が言う。

 

そういうえば、先月の後半に久しぶりに映画館で映画を見た。大雨の日に。

ジャック・リヴェットの『北の橋』と『メリー・ゴー・ラウンド』。

『北の橋』は昔見たのもあって、面白かったが寝てしまった。

仮眠もすんで万全の状態で見た『メリー・ゴー・ラウンド』の面白さ。

 

こんなことがほかにもいろいろあった気がするのだが、忘れてしまう。もしいまの状態が、自国や友人たちの故国で毎週のように絶句するしかないようなことが起こっていて、実際に絶句し、そのためにこうした毎日の出来事も書き留められない、ということなら…と、こんな考えだって書くようなことだろうか?

 

八月末、秋に展示をする友人に文章を書かないかと声をかけてもらった。

でも翌月20日締め切りのその文章もどうしても書けなかった。

意味があると思えない、というか、無意味でもいいじゃないか、と思えない。

 

それでスケッチブックとトレーシングペーパーを買って、家にある古雑誌でコラージュをはじめたら、止まらなくなった。

過去の(すでに生産されている)イメージを再利用するコラージュの積極性と消極性が心身にいい気がする。時間を忘れる。

言うことがないのを「スランプだ」とかがっかりしていないで手を動かせる、深刻になり過ぎない方法だと感じてもいる。

 

友人には最初のコラージュ5点に音楽のコラージュと短い説明書きを添えて提出した。

 

十月は誕生日の月だ。どうなることやら。