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日常について、コラージュについて 2022/10/14


さいきん、日記を書かなかったことがすこし残念だ。

でも「日常」の感覚が崩れていた時期なんだと納得もする。

ここに書けるのは、その言葉にどんな意味があるとしても「日常」の範疇のことなのだ。

逆にいえば「日常」ということの意味がここには書かれている。

 

九月の後半に買ってコラージュの台紙として使い始めたスケッチブック(24枚)を昨日、使い切った。

24枚作ってみて思うこと。

 

いままで書いていたようには文章を書けない気持ちになって(翻訳はなぜか別)、コラージュをはじめた。できあがったものを見ているとほんの一瞬、ほっとする。コラージュが、基本的には消費を促して未来への希望を語っていた過去のイメージを切り貼りすることだとしたら、イメージが指し示すものを買いにゆかず、その画像をもてあそんでいる時間だけは、消費と幸福の詐術ともいうべきものから自由になっている、と言えはしないか。

 

「消費することと良い未来とはすばらしいコンビなんだ」と伝える意図があったイメージ群を切り貼りしていると、それらを「ばかばかしい」と笑っているような感じがする。それらを真に受けた人間たちのことも。ということはもちろん、自分のことも馬鹿にしているわけだ。だからある種の悲惨さがある。でも、深刻さはない。というのもコラージュは「遊び」だからだし、だから、いま書いたもっともらしい理屈を超えていく楽しみなり豊かさなりがそこにはある。

 

そう、なんといっても楽しいのだ。

 

ジム・ジャームッシュの映画『デッド・ドント・ダイ』は、ゾンビに自分を重ねて見るほうが、警察官たちに寄り添うより面白いと感じる。

ぼくはデッドになってもコラージュをやっているゾンビで、いろいろ終わっているが、この後に及んでまだ楽しもうとしている。

 

作りながら笑っている。自分の凶暴さと公正でなさを見ている。息抜きしている。