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ミハイル・バフチン『美的活動における作者と主人公』(1920−1924)についてのノート



ミハイル・バフチン『美的活動における作者と主人公』(1920−1924)についてのノート|川野太郎|2014/12/3

 

■主人公にたいする作者の関係の問題

 

□美的活動における作者の、主人公にたいする余裕。作者は主人公にたいして外在的な位置にいる。この位置から、主人公自身がその内から達することのできない様々な要因(「外見の充実、外貌、背景となるもの、死および絶対的な未来というできごとへの彼の関係」など)を補填することで、主人公を一個の全体―形をもってある一定の空間を占め、始まりと終わりのある時間のなかに生きる他者―にする。

 

□作者(わたし)の主人公(他者)にたいする余裕が、どのように主人公を全一的なものとして完結させるか―空間的に、その外的な形象を(主人公の空間的形式)、また時間的に、その内的な生を(主人公の時間的形式)。

 

■主人公の空間的形式

 

□世界におけるわたしの位置は唯一で、代替不可能なものである(他者はわたしの位置に立ってものを見ることができない)。そのため、わたしは、他者を前にして、彼自身の目には入らない身体の各部分(頭、顔、表情、等々)や、彼を取り巻く環境、背後の世界を見、知ることになる(わたしの、他者にたいする余裕)。

 

□「見る眼の余裕」が美的な活動において完結される形式(美的なもの)となるための、ふたつの要因。 (1)対象に生を移入し造形し、また、(2)それを完結させること。主人公の意識にたいして外在的な要因は、〈対象に生を移入する伝達〉(「(…)これらの要因がもつ外的表情は、わたしがその助けをかりて彼の内部にはいりこみ、内側から彼とほとんど融合するための通路なのである」(149))と〈対象を造形し、完結させる機能〉(「彼を枠づける青い空は、彼の苦しみを完結させ、解決する絵画的な要因となる」(150))をになっている。他者への移入があり、自己への回帰がなされてはじめて、美的活動がはじまる。

 

□わたしは、観照される他者の独自性をそこなうことなく、彼の視野を満たさなくてはならない。「わたしは、この他人の中に感情を移入し、彼自身が見るように彼の世界を内側から価値評価的に見、彼の位置に立ち、しかるのちに、再び自分の位置に立ち戻って、彼の外のわたしの位置から可能な見る眼の余裕によって彼の視野を充たし、彼を枠づけし、彼のために、わたしの見る眼、わたしの知識、わたしの願望と感情のこの余裕で、完結させる環境をつくり出さなくてはならない」(148)。

 

□わたし/他者のもつ外貌の体験。わたしの外貌は、一挙にわたし自身の視野に入ることがない。断片的な外的特徴は、内的な自己感覚によって統一され、内的言語に翻訳される。わたし自身の外貌は、他者がそうであるような、外的に統一ある対象としてはあらわれず、自分を内側からのみ、体験する。いっぽう、わたしは他者を、十全に外的な像として受け取る。芸術作品の生と夢想の生(また現実の生)の世界との違い。自分についての夢想は、自身の外的特徴を用いず、外的に完結した像を喚起しない。いっぽう、芸術作品においては、中心的な役割をになう主人公も含めたすべての登場人物が外的に表現され、形象化される必要がある。

 

□わたし/他者を包む外的境界の体験。わたしはわたしを取り囲む空間を見ることはできるが、その空間に置かれた自分自身(つまりその境界)を見ることはできない(自己体験の内にとどまる自分自身)。「わたしは他人においてだけ、人間がもつ有限性、経験的に局限された具象性を、生きた、美的に(また倫理的に)堅固なものとして体験する」(162)。「身体の境界としての線は、他者を(…)規定し完結させるのに価値的に相応しているが、わたしをわたし自身にとって規定し完結させるのにはまったくそぐわない」(166)。非空間的な、自分にとってのわたし。空間的な、他者にとってのわたし。「自分にとってのわたしはいかなる所与の状況に対しても、いわばその接線上に在る。わたしのなかで空間的に与えられているものはすべて非空間的な内的中心に引きつけられ、他者のなかの観念的なものはすべて、彼の空間的な所与に引きつけられるのである」(167)。

 

□わたし/他者が体験する人間の動作。身体の、内的な体験の重要性――内的自己感覚の言語への翻訳がなされない限り、外から与えられた身体の概観をわたしのものとして認めることができない。筋肉の感覚といったものは、内的に体験されているものであり、「身体的な動作をするときに、わたしは自分の外的な特徴にはまったく注意を集中しない」(170)。スポーツの例(「あらゆるスポーツの第一原則は、まっすぐ前方を見よ、自分を見るな、である」(171))。「行為を造形・絵画的に完結させる要因はすべて、抜き差しならぬ必要性と重要性をもった目的と意味の世界に対して、原理的に外在的である。(…)そこではわたしの視野が、彼の行動する視野、当面の必要な目的のために解体されている視野を、補塡し完結させるのである」(174)。

 

 

□身体の価値をめぐる問題(とその歴史)。わたしという価値カテゴリーと、他者という価値カテゴリー。価値としての人間は、わたしというカテゴリーに重きを置くばあい、自己体験の影響で、それに都合のいいように他者体験の独自性が低下する。他者というカテゴリーに重きを置くばあい、自己体験の独自性が低下する。「(…)人間、それはわたしみずからが自分を体験するとおりのわたしであり、他者もこのわたしと同じである」/「(…)人間、それはわたしが体験するとおりの、わたしを取り巻く他人たちであり、わたしもこの他人と同じである」(180—181)。その優位性、比重の違い。だが、本来は双方の要因が人間のもつ全体の成分である。

 

□「すなわち、唯一のわたしの生という閉じた全体、わたしの生の実際の視野で、人間を実際的に具体的に体験する場合、その体験は二重の性質をもち、わたしと他者は、見る眼と評価(抽象的な評価ではなく、実際の具体的な)の異なる面(平面)を動くのであって、それゆえ、わたしと他者を同一の平面に移すためには、わたしは価値的に自分の生の外に身を置き、自分を他者たちのあいだでの一個の他者として知覚しなくてはならない、ということである(…)ただそのように知覚された生、他者のカテゴリーにおいてのみ、わたしの身体は美的に意義をもつのであって、わたし自身の生のコンテキスト、わたしの自己意識のコンテキストにおいてなのではない」(188)。

 

□「主人公の内的身体は、他者にとっての、作者にとっての外的身体によって包まれ、作者の価値的反応によって美的に堅固なものとなる」(190)。外的な身体を成り立たせる要素のふたつの機能。表現的機能と印象的機能

 

表現美学。美的活動の本質は、客体の観照に置ける、内的状態の共体験(感情移入)である。「表現美学はあらゆる空間的な美的価値を、心(内的状態)を表現する身体」と考える(192)。身体の内的な特徴を、外的な特徴の助けによって共体験する。ここにわたしと他者の対立は存在しない(他者を欠いている)。また観照の欠如(わたしは傍観者ではなく、参加者である)。わたしは、主人公の内的な体験を、わたしというカテゴリーで体験する。

 

□表現美学への批判。(1) 表現美学は作品の全体を説明することができない。『最後の晩餐』。キリストと使徒たちの内的状態の総和は、絵画の全体と等価にはならない。「美的な全体は共体験されるのではなく、能動的に想像される」(197)はずである。作者の創造行為への、観る者の共体験。(2) 表現美学はフォルムを根拠づけることができない。表現美学によれば、作品全体のフォルムは主人公の内的な生の表出である。だが、内的な生の志向のみが全体のフォルムを造形するのだとすれば、主人公の生を完結させる造形・絵画的価値が崩壊する。共体験されるオイディプス。「オイディプスは美的に救済され購われることのないまま、一人取り残されてしまい、生は、生きるもの自身にとって生が現実に流れるのとは別の価値的レベルで完結され是認されることのないままに終わるのである」(202)。彼の生に悲劇的な色、崇高さ、美しさを与えるのは、彼の外側にいる作者が彼の心にとって外在的な価値で心を取り囲むときのみである。

 

□表現美学はその原理を全うしない。表現美学が美学の理論たりえるのは、原理からのある逸脱による。それは共感的共体験(「愛に似た共感」)である。共体験は、対象への共感を条件のひとつとしてなされる。この共感は、「主人公の内的体験の情動・意志的構造全体を根本から変換し、その構造にまったく違った色彩、違った調子をもたらす」(213)。「主人公の生を共感をもって共体験するとは、生がその主体自身に実際に体験された、あるいは体験され得たのとはまったく別の形で、その生を体験することである」(214)。他者のカテゴリーへの移行。フォルムは主人公=他人にたいする作者の能動性をあらわしている。

 

□印象美学。主人公にとっての他者を欠いた表現美学とは反対に、「芸術のできごとの受動的でありながらも独立した要因である主人公を欠いている」(224)。(→)表現美学も、印象美学も、二つの意識の生きた関係としてのできごとが欠けている。

 

◇「彼はわたしの外に留まるべきである、なぜなら、その位置で彼は、わたしが自分の立場からは見ることも知ることもないものを、見て知ることができるからであり、それゆえにわたしの生のできごとを本質的に豊かにできるからである。他者の生と一体化するだけならば、わたしは彼の生の出口のなさを深め、数の上でそれを倍加するに過ぎない。わたしたちが二人であるときに、できごとがもつ実際の生産性の観点から重要なのは、わたしの他にもう一人、本質的に同等の人間(二人の人間)がいるということではなく、彼がわたしにとって別の人間だということである(…)なぜならわたしの生は彼によって、新たな形式、新たな価値カテゴリーで(…)共体験されるからである」(220)。

 

■主人公の時間的全体

 

□主人公の。心は美的なカテゴリーで構成される。所与の、現にある全体としての心。外側から見られた他者の精神。一方、自分で見るわたし自身の内側には、価値的に全一なものとしての心は存在しない。「わたしの内省は、それがわたしのものであるかぎり、心ではなく、ただ悪しき半端な主観性、何かしらあるべからざるものを生み出すだけである」(236)。心は、主人公の外的な身体がそうであったように、「わたしのではない力によって保つことができる」(237)。

 

□「問題はけっして、他人の体験をわたしのうちに正確に受動的に反映すること、復元することではなく(そうした復元は不可能だ)、その体験をまったく別の価値的平面に、評価と構成の新たなカテゴリーに翻訳することにある。わたしが共体験する他者の苦悩は、彼自身にとっての苦悩ともわたしの内でのわたし自身の苦悩とも、根本的に異なる――それも本質的な意味で。(…)共体験される他者の苦悩とは、まったく新たな実在の形成であり、わたしのみによって、唯一の立場から、他者の外で内的に実現されるものなのである」(238—239)。

 

□他者の内的な生の時間的フォルム。前章で見た空間的なフォルムと同じく、これも他者の心を「時間的に見る眼の余裕から発達する」(240)。わたしによる、他者の内的な生の時間的境界(生の始まりと終わり)を見る余裕。わたしは、自身の誕生と死を体験しない。体験できるのは他者の誕生と死だけである。「質的に特定の人格という存在の諸価値は、他者にのみ固有のものである。他者との関係でのみ、わたしにとって出会いの喜び、ともに在ることの喜び、別離の悲しみ、喪失の嘆きは可能となる。時間の中でわたしは他者と出会うことができ、また時間の中で別れることができる。他者のみがわたしにとって存在することも存在しないこともできるのである。わたしはつねに自分とともに在り、わたし抜きの生というものはわたしにとってあり得ない。他者という存在に対してのみ可能なこうしたすべての情動・意志的トーンこそが、わたしにとっての他者の生がもつ独特の、できごととしての重み―わたしの生がもたない重み―をつくりだすのである(…)わたしの生の中で人々は誕生し、通りすぎ、死んでゆく。そしてかれらの生―死は、しばしば、わたしの生の最も重要なできごと、わたしの生の内容を決定するできごととなる(…)。そうした筋を構成する意義を、わたし自身の生の期間はもちえない。わたしの生は、他者たちの存在を時間的に包むものなのである」(241—242)。他者の生にのみ付与されうるリズム

 

□他者とその生についての追憶。「追憶とは、価値的な完結性の観点からのアプローチである。ある意味で追憶は救いがないが、しかしそのかわり追憶だけが、すでに完結してそっくり現前する生を、目的や意味を離れて評価することができるのである」(244)。「他者の生の時間的境界が与えられていること(あり得べきものとしてのにせよ)、他者の完結した生への価値的アプローチそのものが与えられていること(実際には特定の他者がわたしより長生きするとしても)、死という、あり得べき不在というしるしの下に他者を知覚すること―このような与件が、生を、こうした境界の内側での生の時間的流れのすべてを稠密にし、そのフォルムを改変する条件となるのである(…)」(244)。

 

わたしの時間。わたしは自分自身の時間を非美的に体験する。「あらゆる時間性、持続性は、いまだ実現をみないものとして、何かしらまだ最終的でないものまだすべてではないものとして、意味に対立する」(261)。未来への志向。わたしは、自身の生のいかなる瞬間も、完結したもの、自足したものとして認識できない。「自分自身についてわたしの定義がわたしに与えられるのは(…)、時間的なカテゴリーにおいてではなく、いまだ存在でないもののカテゴリー、目的と意味のカテゴリーにおいてである。過去と現在の現にある通りのわたしにそっくり敵対する、意味的な未来のうちになのである。自分自身にとって存在するとは、自分の前方にあることなのである」(263—264)。いっぽう、他者の時間は、その瞬間に与えられている所与の条件で充足している。

 

■主人公の意味的全体

 

□主人公の心を表現する際の、言語芸術作品の諸形式。

 行為、および自己弁明の告白。主人公と作者の不在。このとき、わたしは人格の一定性を必要とせず、何らかの対照的、意味的な意義を実現しようとするのみである。自己意識に外在的なものの排除。弁明によってわたしは赦し・贖罪を求めるが、その是認は弁明じたいの中ではなく、外にある。「その祈りは終わることがなく、それは永遠にくり返されうる。自身の内側からはそれは完結されえないので、それは運動そのものなのである」(292)。これが美的なものになりうるとすれば、読者がそれを美的に理想化し、いうなれば作者の立場をとり、自己弁明の告白の主体を主人公の位置に移行させる場合である。観照ではなく、返答の行為で応えること(完結させること)を強いられる。

 

□自伝(伝記)。作者が主人公にもっとも近い形式。作者は原理的に主人公よりも豊かではなく(つまり外在的な要因をもたず)、その創造において、主人公の生にすでにそなわっているものを継承する。「〔主人公が〕その生において自分のために自分のうちに見かつ欲したものだけを、作者は、主人公のうちに主人公のために見かつ欲するのである」(313)。主人公が故意にヒロイックにふるまえば、作者は同じ観点から彼をヒーロー化する。作者と主人公の立場の交換可能性。ただし、主人公の生に懐疑的になるとき、作者は対置される外在的な価値、見る余裕を行使することになる。

 

□抒情詩の主人公と作者。権威ある作者と、それに対して無力な主人公。主人公のなかの内的なものが、「いわばそっくり外側に、作者のほうに顔を向けており、作者によって仔細に検討されている」(319)。作品の外での主人公と作者の人格の一致(抒情詩的な自己客観化)が可能なほど、作者の圏域と主人公の圏域が融合している。(1) 抒情詩の主人公は空間的に、外的な世界に画定される要因に欠けており、そのために「世界における人間の有限性」(320)をはっきりとは感じさせない。また明確な生の動き(筋、ファブラ)をもたず、完結した性格ももたない。(2) コーラスの権威という、作者の権威。自分を他者の声のうちに聴くこと。「わたしは情動的で興奮した他者の声のうちに自分を見出す。(…)他者の声のうちに自分自身の内的な興奮への権威あるアプローチを見出す」(322)。

 

□主人公と作者の相関の形式としての性格(キャラクター)の問題(彫塑的)。自己弁明の告白、伝記、抒情詩の場合、主人公の全体は問題にされなかった。自己弁明:芸術的な課題をもたない。伝記:伝記において重要なのは、彼が(完結した全一の主人公として)何者かということではなく、彼がなにを体験しなにを行ったか、ということ(326)。抒情詩:内的な状態・できごとが重要なのであって、主人公が一個の全体として完結しはしない。いずれも作者と主人公の関係がきわめて近しいものである。いっぽう性格は、「主人公と作者の相関の関係」であり、これが「一定の人格をもった主人公の全体を創造する」(327)。ふたつのコンテキスト。(1) 主人公の視野と、そのなかでの行為や対象が彼自身にとってもつ認識的・倫理的な生の意義。(2) 作者=観照者のコンテキスト。批判的な作者の前に、主人公は「もっとも自主的で、生き生きとして」いる。ふたつのコンテキスト間の緊張。

 

□キャラクター構成の、二つの方向。古典主義的な構成と、ロマン主義的な構成。

 古典主義的な構成。主人公にとって外的な運命。「個人の存在の全面的な一定性、個人の生のすべてのできごとを必然性をもってあらかじめ決定づけている一定性」(328)。彼が課せられたものがもつ形式ではなく、彼の所与がもつ形式。悲劇の主人公ははじめから罪を負わされており(家系から負わされた)、道徳的意識をもったうえで罪を「おかす」ことはない。そのとき、死は終わりというだけでなく、完結でもある。すでにあるものを継承する。運命は、家系という価値をその土壌にして育つ。家系(民族、伝統)という価値の強固さのため、それにたいする議論の余地はなく、作者と主人公の立場はめったにゆるがない。

 ロマン主義的な構成。古典主義的な構成と異なり、「主人公が自分の生の価値的・意味的な系列を責任を持って開始する」(334)。ロマン主義的な主人公の個性は、「理念の具体化として、その本質を明らかにする」(334)。したがって主人公の生の歩みはある程度、象徴的である。不安定な作者と主人公の関係。作者の内省が、主人公の性格を変化させる。そのとき重要視されるのは、主人公の境界ではなく、「生そのもの(認識的・倫理的な志向性)」である(335)。

 

 

□主人公と作者の相関の形式としてのタイプの問題(絵画的)。作者によって、主人公をとりまく時代と環境として表現された人間の志向。主人公の行為を制約している諸々の要素(経済的、社会的、心理的、生理的、等々)。これらの典型性、という外在性。しばしば風刺と結びつく。

 

■作者の問題

 

□作者について。作者は作品の世界の外に留まることで、世界を堅固なものにする。作品に見られる作者の立場――外貌がどう描かれているか。全一で外在的な形象があるか。主人公が周囲の世界に緊密に組み込まれ、動作がどれだけ「ゆったりとして優美であるか」、その心がどれだけ「生き生きとしているか」(348)、結末、完結がどれほど完全か、等々。

 

□素材の克服。作者による言語的芸術の試みは、言語学(意味論、音韻論、統辞論など)の範囲を越える。「芸術の手法とは、単に言語的素材(言語学的な所与おしての言葉)を仕上げるための手法なのではない。それは何よりもまず一定の内容を仕上げる手法でなければならず、その際に一定の素材の助けを借りるのである」(349—350)。「(…)しかし理解することが必要なのは、技術的な装置ではなく、創造の内在的な論理であって、なによりもまず、創造が行われてそれが価値的に自己を意識するばあいの、価値的・意味的な構造を理解すること、創造の行為が了解される場としてのコンテキストを理解することが必要なのである」(351—352)。

 

□作者と、形式を付与することに対して抵抗する主人公。作者は「徹頭徹尾、純粋に美的な要素のみによって主人公を創造することはできない」(357)。作者は主人公を造形する以前に、ありうべき主人公を前もって見出す。作者のフォルムを付与する行為のみでは、フォルムは意義をもたない。価値的な実在をもった主人公との関わりを探り当てる必要(美的活動)。

 

□作者、読者、主人公。作者は、読者にとって従うべき原理である。一個人に限定されない作者。読者は、作者の能動的に見る眼に感情移入する。「作者は何よりもまず、作品というできごとから理解されなければならない。このできごとの参加者として、このできごとにおける読者の権威ある導き手として」(368)。

 

■テキスト■

ミハイル・バフチン「美的活動における作者と主人公(一九二〇—一九二四)」佐々木寛訳、『ミハイル・バフチン全著作1』所収、伊東一郎・佐々木寛訳、水声社、1999年。

 


©️Taro Kawano