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遠い国


樋口武志


 アイスランドには二度行った。二〇一三年の冬と二〇一九年の夏。海外へ頻繁に出かけるほうではない。その六年のあいだ、ほかに旅行したのはロサンゼルスとニューヨークだけだ。飛行機で一六時間以上はかかるし高額なのに、四回中二回アイスランドなんだから、かなり気に入ってる。家の近所を散歩してるような気楽さで、飲食店を、スーパーを、名所を、街を過ごせる旅行先は初めてだったのだ。そうやって解放的に過ごせる理由を考えてみると、普段何に縛られて生きているのかが見えてくる。

 

 

 カナダに生まれ、イギリスで暮らす作家レイチェル・カスクのエッセイを読んだ。『Coventry』というタイトルに魅かれて買ったのだ。コヴェントリーとはイギリス中西部の田舎町の名前で、僕が十年以上前に留学していた大学がある場所だった。

 この本に出会うまでまったく知らなかったのだが、「send to Coventry」という慣用句があるそうで、無視されるとか村八分にされることを意味する。諸説あるものの、一七世紀半ばのイングランド内戦時、クロムウェルが対立する王党派の兵たちを収監のためコヴェントリーに送った際、地元民が収監兵たちを忌避し、接触を避けたというエピソードを由来とするサイトが多い。

 そのうえ『Coventry』の書評には、彼女が「live in Coventry(コヴェントリーで暮らす)」といった記述がちらほら見られた。

 ふむふむ、声を奪われた女性が、声を奪われた場所から声を上げる作品なのかもしれない。なかなか面白そうではないか。

 早とちりは僕の得意技だ。彼女はコヴェントリーに住んでいなかった。イギリスに暮らしてはいる。「live in Coventry」は、両親からなぜか唐突に無視される期間が時々あり、そういう「沈黙」の状態にいることを指した比喩表現だった。

 コヴェントリーにいること=時おり親から無視される状態を受け入れる過程が描かれたエッセイで、そこに登場する「suspension of disbelief」という考え方が印象に残っている。「不信の停止」や「不信の宙吊り」と呼ばれるもので、小説や演劇などの読者や観客が、提示されるフィクションの世界に対する不信や懐疑をいったん脇に置き、作品を受け入れることを指す。

 あるとき彼女は、コヴェントリー送りもまさに「不信の宙吊り」であり、無視してくる親だけでなく、その状態に不信の念を抱かず受け入れて、親に認められようと苦心する自分の共犯関係で成り立っているのだと思うにいたる。コヴェントリー送りが終わり、ホッとして元の生活に戻る自分は、凍える庭から家の中に入れてもらう犬のようで、かわいがられ、守られたいという気持ちがまさり、自由になれる可能性を見ていなかったという。

 しかしそんな認識にいたるまでには長い時間がかかっている。これを書いている自分はもうすぐ四九歳になる、と彼女は書いている。「不信の宙吊り」とは裏を返せば何かを盲目に信じるということだ。どうしてそんなに「無視」に苦しんでいたのか。何をそんなに信じようとしていたのか。そこに信じるべきものなどあったのだろうか? 盲信は時と共にゆっくりと、静かに溶けていく。出会った夫も物静かで、沈黙に安らぎを見いだせるようにもなってきた。

 盲信からの解放について、彼女は次のように記している。「まるで生まれながらに石のかたまりに閉じ込められているようだったから、そこから逃れて自由になることが必要であり義務だった」。石を削り取って自分を解放していくのは、時間と労力のかかる作業だ。そうやって少しずつ自由になっていく彼女は、コヴェントリーに送られても、気にせずそこにとどまっておこうと決意する。

 

 

 さて、もちろんこの解放は政治的、社会的、言語的、あるいは感情的に抑圧された現代の女性たちの声にも遠くで響き合っているものだが、彼女のエッセイを通してわが身を振り返ると、自分が何に縛られているのかが見えてくるような気がする。

 九州出身の平均的なサラリーマンである父親と、同じく九州出身の専業主婦である母親が築く、悪気なく男尊女卑が初期設定となった家庭で生まれ育った男性である僕としては、彼女に息苦しさを感じさせている人物のほうに、どうしても意識がいってしまう。これって明日の自分なんじゃないか。そういう感覚がつきまとう。

 閉じ込められていた女性たちの物語を知るたびに、自分がいつこの両親の立場になってしまうかわからないという気分に襲われ、恐ろしくなる。正確に言うなら、こうしているいまも無意識に誰かを息苦しくさせていないだろうかと心配になってしまうのだ。そうやって気をつけてるならいいじゃん、と言われそうだが、こちらが自覚していない領域でハラスメントや差別をしているかもしれないし、そんなの確認のすべがないから怖いのである。いま大学で非常勤講師をしているが、女子学生と話すときは、右手で口を覆い、左手は右ひじを支え、発言内容にも細心の注意を払う(スメハラ・セクハラ・アカハラ対策だ)。そんな行為はバカげてる。でも、正しい。

 なぜそんなに自分を信用できないのか。答えは簡単だ。自分もある意味で誰かをコヴェントリー送りにする側の人間だったからだ。女性だけでなく、弱者やよそ者への差別や暴力が普通に存在する環境で育ち、その世界に適応しようと苦心していた時期があったからだ。

 そこでは、この世に自分と違う価値観を持つ人が存在することに思いを馳せたり、自分が無意識に持ってしまっている偏見を点検するなんてことが起こりにくい。あらゆるハラスメントがごく日常的に存在し、就職したら結婚、結婚したら出産し、子育てをするそういう幸せが素朴に信じられている。弱者は笑われ、いじめられ、差別される。隣国の悪口が急に飛んでくる。そこにはただ「現実」があるとでも言えばいいだろうか。フィクションではなく、現実を必死に生きる人たち。そういう人たちを大量に知っている。批判するつもりなどまったくない。むしろそういう人たちこそ、圧倒的大多数じゃないだろうかという感覚が、いつまでも自分のなかから消えない。

 坂口安吾は「文学のふるさと」のなかで、芥川のエピソードを紹介している。百姓をやっている作家が、「赤ん坊が生まれたが、生活が苦しいので子と親の幸せを考え、その赤ん坊を殺して埋めた」という話を書いて持ってきた。芥川がこれは実際の出来事かと問うと、相手は、俺がやったことだ、悪いと思うか、と問い返し、芥川は答えに窮する。芥川はこの経験に「突き放され」る。安吾は、芥川が突き放されたものの正体は「大地に根の下りた生活」だろうと語る。

 生活。僕が生きて暮らしてきた現実は、なかなか前時代的な価値観で織りなされていた。いまもそうやって暮らしている人が多くいるし、そういうところで育った自分だから、無自覚な偏見・差別があるかもしれない。だからこそ女子学生と話すときのみならず、酒の席でも、年上や年下や同僚と話す時でも、つまり自宅以外のほぼすべてのシチュエーションで、かなり強く自制して発言している。

 実に不自由だけれども、気を抜いたら何が起こるかわかったもんじゃないので、それくらいがちょうどいいのだと思っていた(最近は守りよりも攻めだと思い直し、まずは伸び伸び生きてみようと考えている)。

 何かを書こうとするとき、あるいは翻訳するとき、つまり言葉を選択するとき、そんな生活者たちが頭をよぎることについては、自分にとってプラスに働いているように思う。

 

 

 アイスランドには何もない。小さな市街地を抜けると、平坦な土地に道路が一本通り、ときどき岩があって、遠くに崖や山や氷河が見える。道路にはガードレールがなく、ずっと向こうまで見渡せる平らな土地は夏なら苔か草が、冬なら雪が覆っている。大地と、自分がいるだけ。

 そこには自制するべき社会は最小限にしか存在せず、ただ自然と向き合える。バスに乗って滝を見に行く。車を借りてハイキングへ行く。船に乗ってクジラを見に行く。外に流れるのは空想にいざなうファンタジックな光景。自分にとってアイスランドは、「自制」の呪縛から解き放たれて、存分にその瞬間を楽しめる場所なのだ。飯もうまい。本当に居心地がいい。何もないところがいいなら、砂漠やジャングルだって良さそうだが、あいにくそういう野生の土地をサヴァイヴできそうな胃腸やタフネスやコンタクトレンズを持ち合わせていない。

 そんなわけで、ずいぶん遠い国なのに二度も行ってしまったし、機会があればまた行きたいと思っている。きっと遠いからいいのだろう。普段の生活とはあまりに対極にあるから、自分を縛っているものから静かに解かれるような気がするのだ。