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「ライフ・オブ・ウォーホル」についてのノート 2020/05/17


寝たり醒めたり。夢も見た。5時半から洗濯とNL翻訳。現在7時半。

 

昨日の夜は久しぶりに映画「ライフ・オブ・ウォーホル」(ジョナス・メカス、1990年)を見た。ヴェルヴェッツの歪んだ「I'll be Your Mirror」が流れる冒頭のシークエンスにしびれた。テンポと、そのテンポで提示される映像と音にまず持っていかれる。Nitty Gritty Dirt Bandの「Living Without You」が流れるところは唐突で、その唐突さが感傷を高めている、このセンチメンタリズムの噴出も周到である、周到という言い方が悪ければ、この感傷の高まりが、呼吸の乱れというより、息をするようになんとはなしに浮上する感情の、記憶の、イメージのひとつの側面なのだというふうに提示されていると感じられる。メカスはエッセイや、ウォーホルとファクトリーに捧げた別の映画のなかでも、ウォーホルを「聴く人」であると書いている、映画ではかならずしもウォーホルがいつもうつっているわけではない、メカスにとってのウォーホルが「聴く人」であったならそれはおかしなことではない、聴き手は語り手がいなければ成立しない、彼らの目配せ、口の動き(そこに声はない)、笑顔、こうしたことが、本質的にサイレント映画であるこの映像の証言の形だ、ウォーホルがなにより「聴く人」であったことをイメージが伝えている、その雄弁さは言葉で説明される貧しさとは反対で、静かに多くを伝える、メカスはウォーホルの印象とともに人々のうつった素材を選び出す、そのすべてが「聴く人」ウォーホルのポートレートだ、それはウォーホルの言葉で構成されていない、彼の「美術作品」で構成されていない、彼の「美術作品」の社会的影響で構成されていない、「いわば巨大な精神科医のカウチ」であったウォーホルとファクトリー、「悲しく、混乱した魂の持ち主たちが自分たちのままで受け入れられる」と感じた場所、場としてのウォーホルのポートレートだ、映画の最後のほうでメカスはウォーホルの葬儀に出席したことを語り、映像は波が打ち寄せる海岸を撮影している、そして「そこはアンディの友人たちでいっぱいだった」という、その友人たちと一緒にいて、積極的に働きかけるというより植物のように他者の光にリアクションするウォーホルをわたしはこの30分見ていた、亡くなったから人はあつまるように見えることもある、それはじっさいにそうだ、でもそれは突然起こった集会ではない、それを映画を見たわたしは知っている、耳を傾けてくれた人は亡くなってからも耳を傾けつづけていて、話しをする人にそのことがわかる。