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川野太郎⇨真殿琴子 二通目 2021/10/29


真殿琴子さま

 

10月が終わりますね。

 

爪の話を読んでいて、やはり自分の手を眺めてしまいました。それから、最近SF(サイエンス・フィクション)のこと、というよりたまたまSFというジャンルに分類されている一冊の好きな小説のことをよく考えるので、自分の爪をそうやって見てもやっぱりSFのことを思いました。

 

「人類の身体とそれに結びついている思考様式は、外から見ると変」というのは、SF小説を読んでいるとよくある表現です。「全体は薄い膜で覆われていて身体のいちばん高所にとくに重いボールがついていて、そこには大きい穴が七個空いていてコミュニケーションするときにそれらの穴がたえず動いていて気味が悪い」…と、身体の機構がまったく違う宇宙人は思う、みたいな。そっくりそのままこうでなくても、こんなような場面は多い気がします。当たり前ではないわれわれ、文字通り面妖(妖しい顔)なわれわれを発見する、というような。

 

先の真殿さんの通信を読んでいると、人間の異様さを捉える視点は、宇宙人の目線で人間を想像したときにはじめてあらわれたのではなくて、そもそもそういう感覚が人にはあって、それが宇宙人じたいを想像させたというのをあらためて思います。指先にあるそこだけ硬い皮膚がいまのようなありかたであることへの驚きは、べつに19世紀とか20世紀以降の宇宙観とか地球外生命体というアイデアに依存するものではないはずで、むしろSFもそういう根源的な驚きを、時代に応じて再演しているところがあるのかも。未来のようで過去なわけです。

 

SFのサイエンスはそれぞれのフィクションのなかのいわば「科学に似た秩序」だから、いわゆる現実の科学とは違うとしても、こうして書いていて思うのは、神様を思うことと科学を考えることはどう親しくてどう違うのかなあということです。読みたいなと思ってまだ積んだままの本にユクスキュルの『生物から見た世界』があります。人間が「ある」と感じているものは、人間以外のものにとってどうなのかな、とか。

 

 

最近、ささいだけどうまく行かないことがやたらと重なって「なんだかな」と感じて、次の日には新幹線に乗って遠出して一泊しました。なぜかとくに夜、ひとりで自分が暮らしていない街を歩くのはとてもよくて、移動することの効能をあらためて感じました。すごく気にしていたことがあっても、それは「そのときそこに暮らしている」ということと密接で、場所を変えたらぜんぜんなんとも思わなくなっていたりします。「わたし」は「わたし」がいるその場所をひっくるめた「わたし」だから、「確固としたわたしが移動している」というより「わたしが動きながら変容している」のではないか、と思ったりします。いずれ帰る、というのはまたべつの問題ですが。

 

ほんのちょっと場所を変えるだけでもそうなる。でもSFだったら、人を凍らせて何百年も眠らせて宇宙船を何億光年も飛ばします。考えると笑ってしまいます。そんなに遠くに行くの…。そしてそうなったとき、その先で出会ったものに知覚を変えられて、あるいはその旅の過程自体が知覚を変えて、元来たところをすっかり忘れる(あるいは「思い入れ」が消失する)という話もあれば、まるで子供時代を過ごして今は住んでいない町を思い出すのとほとんど変わらないみたいに、日常によくある懐かしさに浸るという話もあります。

 

どっちが高級か、という話はあまりする気がなくて、移動は世界(宇宙)観を問うきっかけにもなるし、人の感情というものを考えるきっかけにもなると思いました。旅行は苦手だけど振り返るとなぜかあちこちに行った履歴がのこっています。