· 

On LPD 2022/02/02


晴れ。

 

なんだか最近疲れやすいと思って振り返ると、適当なのは食事だった。あらためよう。

 

OOPの、八つ折りの折本による出版プロジェクトLos Poemas Diarios(LPD)が、今年の前半にすこし立て込みそうなので、以下に覚え書きを。

 

 

これは「書かれたものを本にするという過程を経験するためのフォーム」である。つまり、書いたものに表紙がつき、そこに写真や絵やタイトルをレイアウトされ、奥付を添えられ、製本され、発行される(最後のふたつの順序は、製本される前の状態で発行されるLPDにおいては入れ替わる)ーーという過程を、制作者たちで単に、いわば「味わう」ためのものだ。

 

文を公にする、世に広める、宣言するためにzineを発行するのと、行為自体は変わらない。けれども、そうしたzineが「読まれる」ことを目的として本の形で発行されるのにたいして、LPDは「書かれたものが本の形になる不思議」そのものに傾注する。もちろん「読まれる」までが「本の形になる不思議」のなかに含まれているので、正確には対比にはならないのだが、とにかく、力点が微妙に異なるのである。

 

発行人が個人的に経験した「書いたものが本の形になる驚き」を、彼以外のひとが、産業の外で(というのも産業になると出版を成立させるハードルは格段に上がるのだから)擬似体験できるようにすること。その意味では、牛乳瓶の蓋(!わかる?)を貨幣にした「お店屋さんごっこ」みたいなもの、とも言えるかもしれない。原稿料、デザイン料、編集への報酬は存在せず(印刷費は読者が負担する10円)、それにたいする合意がなければ企画は動き出さない(この合意に抑圧や妥協(「ほんとうは気が進まないけど」)が入っていてももちろん、いけない)。

 

本になるプロセスだけを味わえればいいわけだから、多くのものを削ぎ落としている。ページ数は一律で内容によって変動せず、デザインの大まかな要素はあらかじめ決定している。なにより営業・宣伝をほとんどしない(これはこれでとても興味のある世界ではあるのだけど)。発行(コンビニのネットプリントの予約番号を公開)した時点でもっとも肝心な部分が終わっているので、それ以降についてはある種の冷淡さがある。版元は1週間〜1ヶ月の発行期間を終えると、作ったものを基本的にコントロールせず、データは著者に渡し、印刷と配布のタイミングや方法は著者が決める(…しかし「販売」されたらどうなるのだろう?)。版元が再発行する場合は著者に了解をとる。

 

「そんなに形だけが大事なら、書かれた内容はどうでもいいの?」というともちろんそうではなくて、やっぱり書かれたものが本への過程に先立っている。言葉が本の形に向かっている、そういう「書かれたもの」があってこそ動き出す。本はどんな形でかはわからないけれどやっぱり読まれるべくして作られるのであって、それはOOPのほかの刊行物やOOP以外の出版物とも変わらない。読んでよかったものがあるかもしれないから、気が向いたら印刷して、読んでみてほしいといつも思っている。

 

 

自分なりにまだはっきり言語化できていないことも多いけれど、LPDにはこういう側面があります。いまのところは。