· 

タイミング 2022/02/13


終日雨。夜に傘をさして買い出し。肌を外気に当てるとすこし調子がよくなる。

 

昨日は夜中までかけて『時間と自己』を読んで、読み切った。

 

Instagramに投稿した感想に肝心なことは書かなかった、というか書けなかった。それはこれからの仕事。

が、いちおうこちらにも引用しておこう。

 

「木村敏『時間と自己』(中公新書、1982年)を読むことは、自分の内的な、ずっとだれにも説明できないと思っていた独特な感覚に、精神病理学と哲学の言葉が最接近してくる…という体験だった。いままでの自分の経験と考えてきたことを、総動員して読みました。/だれもが、自分が感じている時間の感覚にもとづいて話をしている。それで社会に加わってもいる。でも、どんな時間の様態とともに「私」がいるのかは、それぞれの「私」によって、千差万別なのではないか。/社会が共有している時間の感覚からはげしくはずれているところがあると感じて、自分の世界像をいぶかしんだり、そのずれにうろたえたりしているひとの、その感覚が、芸術や宗教や哲学に触れる契機になることがある。/本文では一貫して、あいまいな比喩に頼ることを避けながら「私が私であること」と「時間」をめぐって厳密に語ろうとする木村は、しかしあとがきで、「生」というものを「死」が見る「夢」なのではないか、とこぼす。/「しかし、たとえはかない夢であってもまぼろしであっても、私たちはいったんこの「だれか」の夢に登場してしまった以上は、この夢の中で生き続けなくてはならないのだろう。そのためには夢の中の論理をも求めなくてはならないのだろう」/『時間と自己』がよかったのは、「死が見る夢の中」としての「生」の論理である「時間」に一定の見通しをあたえてくれるのだが、そのことがかえって「時間」があることの不思議さを深めるような本だから。/…と言うことはできる。でも自分にとってこの読書は、自分が生きている世界に深く食い込んでしまったので、ほんとうにその印象を伝えるには、個人的なことを繰り返し書くことでしか、つまり間接的にしか、はたされないという感じがする。/1982年に出版された、場所によっては「名著」と呼ばれ続けている本である。でも、それを読むタイミングは自分で察知するしかないし、そのタイミングを語ってみることも、自分の時間を考えることのはじまりなのではないか。」

 

自分にたいする自分のイメージを再編しなければいけないタイミングに、これ!という本を手に取るのか、本を手に取ったときにそのタイミングが来ていることに気づくのか。